1グラムの思考

思ったことを文字におこしているだけのブログ

きらきらした部活ライフを過ごせなかったことの話

わたしは中学の頃バスケットボール部に所属していた。せっかく中学生になったのだから何か運動部に所属しなければ、と思った。部活に所属して、きらきらと輝く青春を送ってみたかった。わたしは日々をだれかと共有がしたかった。一緒に悔しくなって、一生懸命練習して、時には衝突をしながら、全力投球の学生生活を過ごしたかった。

中学1年になり、バレーボール部に入部した。すこし憧れていた。現在は JT サンダースのウィングスパイカーとして活躍中の男子バレー選手 越川優に当時惚れ込んでいた。長身から力強く放たれるプレーがとにかくかっこよかった。身長は130cmもなく、ひょろひょろで、かつバレーボール経験なんて体育の授業くらいしかなかった12歳のわたしには到底叶わないような人だったが、それでも勢いで入部した。部では当たり前のようにベンチプレイヤーではあったが、練習に励み、スパイクができないのならせめてレシーブを、と積極的に先輩のサーブやスパイクの受け手にまわった。しかし残念ながら想像していたほどのきらきらはわたしみたいなベンチ選手とは無縁のもので、バレーボール自体は面白かったものの、苦しくも楽しくもない部活生活を送った。

中学2年になり、バレーボール部からバスケットボール部にうつった。スラムダンクを読んだこともなければ、NBA の試合を観たこともなかった。かろうじてマイケルジョーダンの名前を知っていたくらいだった。なぜ自分がバスケットボール部を選んだのかは今となってはまったく覚えていないし、理解もできない。それでもわたしは途中から入部し、効き手ではない左手で上手にドリブルする練習を続けた。
どういうわけか、試合には出してもらえた。
まだまだ身長はなく、背の高い選手たちにもみくちゃにされていたので、ポイントガードに任命された。わたしはポイントガードを務めることが誇りだった。ポイントガードはチームのブレインで、司令塔で、的確な判断を下すことができるとコーチに評価されたと感じた。

そのうちスタメンにも選ばれた。小さかった分、よく相手選手になめられていたのだが、それを利用してわたしは相手のファールを誘うのが非常にうまかった。嫌な選手が相手にいたら積極的にファールをもらいにいって、選手をベンチに追いやった。バスケットボールでは1試合での個人ファールが増えると強制的にベンチ戻されるので、危なくなってくると大抵のコーチはその選手を引っ込めた。

それは快感だった。あんなに大きくて強気な子を無力化できるのはわたしにしかできないことだと自信をつけた。さらに、相手チームに一定数以上のファールがあると、次からはファールが出る度にこちらがフリースローチャンスをもらえる。わたしがファールをとってくればとってくるほど、得点のチャンスがついてくるのだ。それもフリースロー。だれにも邪魔されることのないフリースローは楽な点数稼ぎの方法だった。

コーチに「フリースローの腕を磨け」と言われた。あくまでもわたしは指示を出してパスを回す役なので、派手に切り込んで点数を入れる機会はそれほど多くはなかった。コーチはわたしのことを「影の人」と形容した。いくらわたしが上手なアシストをしてもスコアブックには載らない、影の人。しかしファールを誘うことによってわたしにはフリースローをする権利が与えられるのだ。それらをすべて決めることによってわたしの狡くてすばしっこいプレーが完成されると思った。ひたすらフリースローの練習を重ねた。何かに打ち込む姿は、わたしにとってはきらきらとした経験だった。しかし、わたしはひとりだった。みんなはドリブルやレイアップや3ポイントシュートの練習ばかりしていた。地味な練習を続けるわたしにはだれも声をかけてくれなかった。ただ、試合でフリースローを決めて加点をすれば、みんなが背中を叩き、肩に手をまわしてわたしを目一杯褒めてくれた。それだけでわたしは十分うれしかった。フリースローの瞬間はだれもがわたしに注目している。固唾を飲んで、物音ひとつ立てずにわたしのいつものフリースロー前のルーチン(2度バウンドさせてからボールを1回転させる、わたしなりのおまじない)を見つめ、全員の視線を浴びながらすっと構える瞬間がとても好きだった。外したらすぐにリバウンドをとってやろう、という強い意思が敵味方構わず、自分の両側に待機した人たちから感じられた。わたしが見事に決めると、飛びつこうと前かがみになっていた人たちが一斉に脱力した。それがすごく、すごくたのしかった。


中学2年が終わる頃、わたしのフリースローの成功率は7割強だった。決して悪くない数字だった。3年生に上がり、わたしは部長になった。わたしの学校の部活はコーチがすべてを決めていた。コーチは、1年の頃からずっとスタメンだった子ではなく、ぽっと出のわたしに、部長のエンブレムが入ったユニフォームを渡した。本来ならば早い者勝ちであるユニフォームの番号も、部長権限ということで一番はじめに選ばせてくれた。2年生に入部した時、残っていたものから適当に選んだ背番号22番。去年もお世話になったユニフォームを手に、わたしはさらにフリースローを磨き、ドリブルの腕も上げた。

試合が楽しくて仕方がなかった。センターラインで待ち構えている相手選手を華麗なドリブルでかわし、正反対の方向を見ながらパスを送るフェイントも覚え、プライドの高いセンターの子にファウルを背負わせた。おかげでわたしはよく吹っ飛んでいた。文字通り、吹っ飛んでいた。ジャンプ中にすごい勢いで横から突き飛ばされて、わたしは空中で半回転をして大きな音を立てて地面にひれ伏したことがあった。肺から空気が抜け、息ができなかった。空気をいれようとしたら咳が出た。試合を観に来ていた母に「すごい音がして、一気に体育館がしーんとなった。あなたがしばらく動かなくて本当にこわかった」とその晩言われたのをよく覚えている。突き指や捻挫も日常茶飯事だった。いつも通っていた外科医に「また?」という顔をされるようになり、一度だけ、足の靭帯を一度にすべてひねった時は「完治しないかもしれない、無理をするな」と叱られた。サポーターを巻いて試合に出て無理をした結果、その足は今でも雨の日や冬の寒い日、あるいは高いヒールを何日か続けて履くと痛む。


しかしそこまでしても、わたしはきらきらとした部活ライフを送ることはできなかった。コーチにはたいそう可愛がられたが、みんなにとってはわたしはどこまでも「フリースローくらいしかできないくせに部長になったチビ」だった。もっとも、わたしはその1年で30cm伸びたので、「フリースローくらいしかできないくせに部長になったやつ」に昇格したのだが。

なんだか孤独だった。切磋琢磨、という言葉とは程遠い練習だった。陰湿ないじめはなかったものの、いないものとして扱われることはよくあった。


ある日の練習試合のこと。その日はひどい雨に見舞われた。バスで1時間とすこしの他校での練習試合。2試合やるのだが、間にお昼休憩をはさむ。お弁当を持ってくる子は少なく、大抵は学校近くのコンビニで買ってきたり、ファミレスでみんな済ませていた。その日も1試合目が終わり、だれかが「お昼行こう!」と声をかけていた。わたしの隣に座っていた子が誘われた。わたしの後ろに座っていた子も誘われた。わたしは誘われなかった。

かわいそう、と思われるのだけは絶対に避けたかった。声をかけられないのは惨めではない。けれど、他人に心配されたり同情されるのは、すごく嫌だった。とっさに携帯を開いて、だれにもかけていないのに、母と話すふりをした。電話中だったから声をかけることができなかった、という言い訳を作り上げた。みんながお昼に出て行き、更衣室にひとり取り残されたわたしは、どうすればいいのかわからなかった。いつもなら近くのコンビニでお弁当を買って更衣室で急いで食べて残り時間を練習にあてるのだが、いかんせん初めてくる学校、初めてくる町だった。どこに何があるのかわからなかった。外に出ようとしたが、ひどい雨で、折りたたみ傘しか持っていなかったわたしは探し回る気力などなかった。

その日、わたしはバスの中で食べる用に前日買って持って来ていた果汁グミ(ぶどう)で空腹をしのいだ。

 

こういうのばかりだった。わたしにはライバルもいなければ、信頼できるチームメイトもいなかった。わたしが持っていたのは、フリースロー成功率95%という実績と、試合に勝った時だけハイタッチをしてくれるチームメイトだけだった。みんなとは不仲というほどでもなかったので、コーチは何も言わなかった。ただただ、とても真面目に、わたしのプレーを指導してくれた。高校に上がってからもバスケットボール部でスタメンを務めることができたのは、わたしの地味なプレーを肯定してモチベーションを上げてくれたコーチのおかげだと思っている。

 

インターハイ出場という夢に向かって部活に励む知り合いの子の話を聞いて、全力で応援してあげたい気持ちがうまれた。嘘偽りない気持ちだ。それでも、心の片隅で、怪我をして挫折をしたらどうなるのだろう、とよくわからない期待をしている部分もあった。しかしきっとその悔しさも、今まで一緒に頑張ってきたチームメイトたちと共有ができるのだろう、と気づく。彼はきらきらしているのだな、と思った。


わたしはもう社会人だ。某少年漫画で読むような熱い友情も、涙が出るような悔しさも、励み合って取り組める仲間の存在もなかった。もう遅いのだ。それは、すこし、さみしい。