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1グラムの思考

思ったことを文字におこしているだけのブログ

人間と関わりたくないの話

じつに傲慢な願いがある。わたしはわたしが関わりたいと思う人間とだけ、関わってゆきたい。話したり、一緒に何かをしたりなどの直接的な関わりがなくても、視界に入っているだけで嫌だ。居なければ良いのに、と思う。それは「死ねばいいのに」とは違っていて、きっと周りが思うほど暴力的な感情でもない。わたしはその人たちに恨みはないし、嫌いでもない。「関わりたくない」と言うとネガティブな印象を抱いているように思えるが、正確には、「別段関わる必要がない」だけだと思っている。

わたしはもともと人混みが嫌いで、午前中の駅でたくさんの見知らぬ人を見ながらふと死にたくなった。人を見るのがストレスになっている。人、と一概に言っても、たとえばわたしは知り合いとはご飯に行くし一緒に遊んだりもする。それらの知り合いはわたしが関わりたい、と思ったのでそのように予定を立てている。それはストレスではない(人と会う予定を入れすぎると疲れてしまうこともあるがそれは別の話なのでここでは割愛)。ただ、どうでもいい人間、取り立てて一緒に居たいと思わない人間が、とてつもなく嫌だ。

それは会社でも一緒で、わたしは自分が話したいと思う知り合いだけが目に入ってほしい。その他の知り合いは視界から消えてほしい。存在すらも認知したくないのだ。これは切実に思っていて、本当に見たくもないし、その人のメールや投稿も目に入ってほしくないし、だれかの口からその人の話を聞きたくもない。なぜだろう、と考えたところ、行き着いた答えが「不必要な人間の不必要な情報に溺れてしまう」だった。わたしには必要のないものが溢れていて、それは想像以上にストレスであった。その「不必要な人間」の層にはもちろんわたしが苦手とする人間もいるが、それ以外にもふつうに今まで話したりなんとも思わなかったりした人間も居る。心に秘めた負の感情があるわけでもない。ただ、わたしが関わりたい人間だけが存在する世界に存在を許すかどうかとは、また別の話なのだ。

わたしの楽園に迎えるかどうかの判断基準は複合的なものだが、とりあえず一番シンプルで強力なものは「害になるかならないか」である。害、といえども様々な形があって、わたしに脅威やデメリットをもたらす存在は明確に排除対象なのだが、もっと些細な害を与える人間も嫌である。たとえばわたしが不快に思うことを言う可能性がある人、話していてあまり面白くないなと思う人、話していて何らかの気まずい雰囲気になる可能性がある人。すべてがわたしにとっては小さな害となりうるので、普段はなんともなくてもこうして「関わりたい人間」の選別ができるのなら、そのような人たちは優先度がぐっと低いのでわたしは結果的に排除してゆくだろう。

 

違和感が昔からあった。よく夜の町や住宅街を散歩することがあるのだが、人とすれ違う度に僅かな不快感を覚えていた。それは今思えば、どうでもいい人間の存在が自分のレーダーに入るから、と理由付けられる。とてもざっくりと一言で言ってしまえば、情報が多い。不必要なものはわたしの精神に大きな負担をかける。それらを全部なくしたい。べつに要らない、と判断した人間の存在をわたしの意識から消し去りたい。それはひどく傲慢で危ない思考なのかもしれないが、わたしはただ、自分の精神衛生を守りたいだけだ。