1グラムの思考

思ったことを文字におこしているだけのブログ

わたしの人生の話

レールに乗るだの、乗らないだの、石田祐希の「4ヶ月で大学を中退し起業します。レールに沿ったつまらない人生はもう嫌だ。」というエントリから始まり何やらいろいろ出回ってるが、わたしは「レールなんて関係ない」と思っている。というのも、レールに乗っていたはずだったのに、何やらまったく想像もつかなかった展開になっているからである。わたしの人生は、思い通りにいっていない。そしてそれは悪いことではなく、きっとよいことなのだと思っている。しばしわたしの人生の振り返りに付き合っていただきたい。


ジョッキーになりたかった。
こどもの頃、はじめて抱いた将来の夢は「ジョッキー」だった。オグリキャップの大きなぬいぐるみに跨り、競馬中継を観ながら鞭に見立てたおもちゃのゴルフクラブでお尻を叩いた。お小遣いを貯めてはじめて買った本はサイレンススズカの写真集だった。その写真集はいまだに実家に大切に保管してある。そのくらいにわたしは競馬、というよりも馬に心を奪われていた。

しかし女子でジョッキーになるには相当の努力が必要で、小柄なこどもではあったものの、体力に難があった。JRA の全寮制育成学校に入ることができず、わたしの儚い夢はあっさりと潰えた。


乗馬をはじめた。
わたしは背骨が曲がっていた。脊椎側弯症というものだった。都内の大きな病院に2時間近くかけて通い、検査とリハビリを何年か続けていた。矯正に良い、と主治医に勧められたのが乗馬であった。もともとジョッキーにあこがれていたこともあり、関東にある乗馬クラブに入会した。かれこれ6年ほど、夏休みなどで関東を離れている時期以外は週1で通った。わたしが乗馬に出かける度に喧嘩にはなったが、なんだかんだ6年間ずっと年会費とレッスン代を出し続けてくれた父には感謝してる。
乗馬をはじめ、わたしの夢はジョッキーから馬術選手へとシフトしていった。馬場から入り、その後障害へ。乗馬を続けていると、そのうち県大会出場の話が出た。この県大会で好成績を残すことができたらアマチュアで乗れるようになるかもしれない。そう思って練習に励んだが、大会前の練習中に落馬し、障害に背中を強く打ちつけてしまった。姿勢もままならない、体幹に力を入れると鋭く痛む。悔しさで押し潰されそうになりながら、県大会出場は辞退した。それを機に、わたしはしばらく馬に乗らなくなった。受験で忙しいから、と言い訳をして乗馬から遠ざかった。


理系の道を選んだ。

海外に留学することになった。読書が好きだったわたしは、文学が勉強したかった。とくにサリンジャーが好きだったので、英文学科などよいのでは、と思っていた。父は無関心… というより、大学なんぞ無駄だ、はやく現場に出て事業を継げ、と言っていた。母は大学には賛成だったが、文学科には否定的だった。母も活字が好きな人間だが、「食っていけない」と英文学科の可能性を一蹴した。理系に進んだほうが働き口があるだろう、と言われ、わたしは否定ができなかった。結局、アメリカ東部にある大学の生物学部に入った。


教師になろうと思った。
研究はあまり面白くなかったが、尊敬する教授がひとりいた。生理学を専門分野とする、とってもチャーミングで素敵な女性で、彼女のもとでなら学びたい、研究がしたいと思った。しかし、わたしの2年目が終わる頃に定年退職をしてしまい、その後はあまり研究をする気が起きなかった。研究室にこもるよりも、TA として困っている後輩に勉強を教えるほうがよほど楽しかった。高校生の頃家庭教師をやっていたこともあって、わたしは教師の道を志望するようになった。必要単位さえ取れば飛び級ができるので、わたしは4年制の大学を3年で卒業することが決まっていたのだが、それを解消し最後の1年で教師免許を取得しようと思った。わたしが在学していたマサチューセッツ州の教員試験はなかなか難しいと言われているのだが、とくに友達もおらず勉強ばかりしていたわたしはなんとか1発で教員試験と生物学の試験に合格した。残るは実習のみだった。


差別に遭って諦めかけた。
実習は、近くの公立校で2学期分の授業を受け持つことだった。8時から16時までは学校。放課後は18時頃までミーティングやら二者面談やらで残る。大学の寮に戻って急いで夕飯を済ませ、19時からは教育学部の授業。22時に帰宅し、採点やら明日の授業の準備やら課題やらを済ます。忙しかったが、それでも楽しかった。唯一の気がかりは、わたしのスーパーバイザー(担当教師)のアジア人差別だった。その学校ではアジア人はわたししかおらず、スーパーバイザーは愛国心溢れるアメリカ人だった。実習の最初のうちはスーパーバイザーが使ってきた資料をお借りして授業を行うのだが、彼女はそれらを頻繁に忘れてきていた。そのうちミーティング時間などの業務連絡や、面談で使う生徒の資料(実習生は直接アクセスすることができない)を「忘れる」ようになった。その学校にはわたしの他に何名か実習生がいたのだが、全員白人である。アジア人のわたしに対する態度や扱いがあきらかに違っていた。

それでもなんとか授業をこなし、1学期目もそろそろ終わろうとしていた。教員免許を取得するには、「州の試験に合格する」「担当教科学部+教育学部を修了する」「2学期分の実習を行う」「スーパーバイザーから推薦の署名をもらう」というステップを踏む必要がある。それらを終えた証明書を州の教育省に送り、審査を経て教員免許が付与されるのだが、この最後の「スーパーバイザーの署名」が試練だった。ついにスーパーバイザーに「きみの書類にサインをしてやることはできない」と言われたのだ。成績も評判も悪くはなかった。そもそも、スーパーバイザーが署名を拒否することなど、よほど大きなミスを犯さない限りは滅多に起きないことだ。なるべく客観的に考えるようにして原因を探ったが、結局わたしは「気に食わないから」突き放されたのだという結論に至った。かなしくなった。泣いた。むなしくなった。証拠を集めてどこかに相談しようとも思った。大学側に相談をしても、「あなたの実力が足りないからなのでは?」と言われた。そんなはずはない。わたしは、自惚れでもなんでもなく、本当にうまくやっていたのだ。

生物学部はしっかり修了していたので、もう教育のほうは諦めようと一瞬思ったが、どうも腑に落ちなかった。なぜこんな理不尽な理由で諦めなければならないんだ。わたしは高等部を教えていたのだが、中等部に路線を変えた。大学は助けてはくれなかったので、ひとりで隣町の中学校に出向き、スーパーバイザーになってくれないかと初対面の教師にかけあった。運良く、彼は2ヶ月後に育児休暇を取得する予定なのに臨時教師をまだ見つけていない、とのことだった。急いで中学校側の合意をとり、「2学期分の実習が必要だからもう半年留年ね」と言っていた大学側もなんとか説得した。1日3コマを2学期続けてちょうど必要時間を満たすことができるのだが、1日6コマを担当して留年せずに実習を完了させるプランを提出した。それが受理されるまでにも一悶着あったが、なんとか許可をもらい、隣町の学校で教えることになった。


2ヶ月だけ好きなことをやった。
無事に大学を卒業し、教員免許も手にいれた。実習先の中学で正規教員のオファーをもらっていたが、ちいさな公立校で起こる様々ないざこざ(親 vs 教師、学校 vs 教師、教師 vs 教師など)に少し疲れてしまっていて、しばらく教育の道からお休みがしたかった。オファーを断り、日本が恋しくなってひとまず帰国した。それが5月。それからは好きなことを心ゆくまで楽しんだ。お気に入りの料亭に平日ランチしに行ったり、スーパー銭湯に通ったり、近所の GEO で映画を借りたり、本を読み漁ったり。趣味のスノーボードも、オフシーズンだけど毎日室内ゲレンデに通って滑った。楽しかった。


運良く就職した。
7月になり、そろそろ仕事をせねば、と思った。日本のような、説明会に行って、エントリーシートを書いて、みたいな就活はしていない。リクルートスーツも持っていない。母から譲ってもらった紺色のジャケットと、普段着で着用していたタイトスカートと、これまた普段から履いていた 8cm のハイヒールで挑むことにした。服装を気にするところなんてこっちから願い下げだ、なんて強気なことを考えていた。人と関わる仕事をしてみたいが、教職に就く気はまだなく、営業も嫌だった。まあとりあえず練習だと思って、と人材紹介会社のヘッドハンターとしての面接を受けに行った。人事系は興味があったのだが、面接の途中で「ヘッドハンターってのは営業と大差ないな」と気付いた。この会社では働きたくない、と思い、面接の最後の質問タイムで「おそらくわたしはこの職種に向いていない気がします」と正直に言った。「そうね」と面接官が答えた。そこで面接は終わり、今度は面接官の営業ターンに入った。「話した感じ、この仕事よりももっとおすすめしたいものがあるのですが、興味ありますか?」と言われ、とある IT 会社のポジションを紹介された。ざっと目を通してみたら、なんだが面白そうだった。その場で連絡をして、書類を送って、面接に行って、採用された。そうしてあっさりと就職先が決まった。


転職をした。
職場は楽しかった。自由な社風で、仲良くなった人も何名かいて、よくしてくれる先輩もいた。そんな中、先輩に他社の仕事を紹介された。きみなら楽しめると思うのだが、と言われ、内容を聞けばたしかに興味を持てそうなものだった。転職を強く考えるようになった。飽きっぽい性格ゆえに、もうすこし流動的で不確かな仕事がしたくなっていた。他業界ではどんなものが求められるのか、世の中にはどんな面接の仕方が存在するのか、わたし自身はどこまで通用するのか。そんなことが気になり、手当たり次第に中途採用の面接を受けた。もしかしたらまったく興味のなかった分野に目覚めるかもしれない、という期待もあった。医療職、コンサル、メディア系、食品業界、物流… 本当に楽しかった。業界によって面接の内容がまったく違っていたり、わたし自身の長所・短所を話した際の反応が違っていたりで、ずいぶんと知的好奇心を満たすことができた。9 社受けたうち 7 社で内定をもらい、おおいに悩んだ。3 つに絞り込んでまた悩んだ。結局、いちばん最初に先輩が紹介してくれた会社に決めた。


人生どうなるかわからない。
いまは IT 系の会社にいる。生物なんてかすりもしない。教育は… まあ、中途で入社してきた人たちの研修を担当するくらいで、先生とは程遠い。いろいろ起きた大学時代だったが、好きだった生物学についての理解を深め、教員としての資格を得ただけで、自身の就職やその後の仕事にはあまり影響を与えなかった。レールなんて気付いたときには外れてるものだし、もしかしたらそもそもレールなんてそこになかったのかもしれない。あるいは、しっかり乗っていても、いつの間にか終着点が変わっているものだ。いまの自分の職種を考えると、きっと広報とかコンピューターサイエンスを学んでいたほうが圧倒的に有利かつ便利なのだが、わたしは大学時代に生物と教育を選択したことを後悔していない(強いていうなら、やはり文学部がよかったな、と思うくらい)。いまの仕事は知識が少ないなりにとても楽しいし、ふとした瞬間に自分のバックグラウンドが役に立つことだってある。ジョッキーになりたかったあの頃、生物学部を修了したあの頃、多種多様の面接を受けていたあの頃。まさかわたしがいまいる会社で働くことになるなんて、いちミリも考えていなかった。レールに乗るとか乗らないとか、むずかしいことを考えるのはやめるといい。未来を思い描くのは大事なことだが、正直な話、考えたところでそれがイメージ通りに実現することなんてほとんどないのだから。