1グラムの思考

思ったことを文字におこしているだけのブログ

結婚観の話 - II

このブログのいちばん最初のエントリーは結婚の話であった。
最近やたらわたしの周りの人間が婚約・結婚をしてゆくので、もう一度思うことを書いてみようと思う。

 

以前も書いたが、わたしの中では結婚=子を成すこと、である。子孫を残すべき、という生物学的・人類学的な見方ももちろんあるが、とりあえずここではわたしの「気持ち」を優先して書く。また、婚姻関係における税金・法的云々の話もここでは考えない。

逆から考えてみる。なぜ人は結婚をする?「しあわせになるため」?それが理解できないのだ、わたしには。しあわせの形はそれぞれあれど、結婚としあわせの関連性がよくわからない。法的に縛られるから安心できるということ?もしそうだとしたらあまりにも憐れだ。結婚をすれば責任が発生し、(浮気などの)軽薄な行為を制御できるから?これも憐れ。そもそもわたしにとっての「しあわせ」の定義は愛し愛されることなのだが(しあわせになることの話に詳しく書いてある)、そこに婚姻という要素は存在しない。婚姻関係など結ばずとも愛することはできるし、時間や記憶を共有することもできる。これは本当に声を大にして言いたい。結婚することによってしあわせを共有する、って言ったってそれが子の喜び以外の場合、べつに結婚していなくても共有できるのでは、と思う。ともに支えあい、分かち合う、ということはあくまでも精神的・心理的な部分であって、婚姻とは何ら関係ないはずだ。


最近おもしろいと思ったのは、男同士の会話で「そろそろ彼女と結婚して責任とれよ」という話を聞いたことだった。まずこの「責任」なのだが、これは一体なにに対しての責任なのだろう。彼女さんの年齢?扶養という意味での経済的責任?あまりにも「責任」という主張が不明確で、何が言いたいのかよくわからない。はっきり言えよ、と思った。子供を産むなら彼女がまだ若いほうがいい、ということなのか、経済的支援をしてやれ、ということなのか。あるいは一生愛してやる、という意思表示なのか。

わたしの母は「べつに結婚などせずともよい」と考えている人間なのだが、祖母はむしろ「身を固めて孫の顔を見せてくれ」タイプだと思う。なので祖母が結婚を促す場合は必ずそこに「子」の存在があるのだ。それこそが本来の結婚の形だと思っている。古臭い考えかもしれないが、そもそも結婚したら子を産み子孫を残す流れがあるわけで、昔は跡継ぎだの苗字だのを残すという意識があったではないか。なぜそれが現代では「結婚してしあわせになる」というものに塗り替えられているのか、とたまに考える。


べつに結婚をするなと言いたいわけでも、結婚してすぐに子を作れと言いたいわけでも、子孫のためであるならば多少望まぬ結婚でも致し方ない、と言いたいわけでもない。どうせ子を残すために婚姻関係を結ぶならば、なるべくしあわせであるのが一番である。愛し合っている、理解し合っている人間同士で結婚するのが一番だし、やはり夫婦の仲がよいほうが子育てにも良かろう。わたしが言いたいのは、結婚するのであれば将来的に子の存在を考えるべきだし、安直に「しあわせ=結婚」、あるいは自分でもよくわかっていない「何かの責任=結婚」と考えないでほしい、ということだ。