1グラムの思考

思ったことを文字におこしているだけのブログ

夢の話 - 挨拶と死ぬこと

夢をみた。ひどく哀しい夢で、起きてしまったあとは心臓が早鐘を打ってしまって寝つけなかった。

ひとつめの夢は、挨拶に関する夢であった。
以前もこのブログに書いたが、わたしにとって挨拶というものは精神的な支えでもある。そのひとと繋がっているのだ、と心があたたかくなるのだ。
しかし夢の中での世界は、冷たく、淀んで見えた。挨拶のない世界であった。
わたしに挨拶をしないことが哀しいのではない。挨拶を大切なものだと感じてくれる人が誰ひとりとしていなかった、ということがあまりにも切なかった。わたしたちが時間を過ごしているこの世界でも、挨拶をただの挨拶として捉え、それ以上の意味は持たないと思う人は巨万と居る。それでも、わたしの挨拶への想いを汲みとってくれて、ちゃんと挨拶を返してくれる人だって居るのだ。しかし夢の中ではわたしがいくら呼びかけても、いくらおはようと、おやすみと、おかえりと伝えようとしても、言葉はただの虚しい音となり、相手に届く頃にはすっかりと意味を失っていた。
それが苦しくて、わたしはだれの心にも触れることができないのだと思って、うっすらと涙を浮かべて目を覚ました。その後はなかなか眠ることができず、目を瞑れば夢の中の世界が蘇り、となりで誰かが寝ていたとしてもふとひとりぼっちになってしまったかのように思えた。居ても立ってもいられず、ベッドから這い出し、毛布に身をくるんで床で寝た。

 

その後、もうひとつ夢を見た。
わたしの知人がふたり、命を断つ夢であった。ふたりとも「大切な人を悲しませたくないから」と、事故死を装って死ねるよう、わたしに協力を仰いできた。自ら命を断つことと、予期せぬ出来事で命を落としてしまうことだと、前者のほうがより悲しみを生むと判断したふたりにわたしはどうも感情移入してしまって、わたしはふたりを手にかけたのだ。
わたしは水が苦手なのだが、どちらも水死であった。大きな水槽のようなものに沈んでゆくのを見て、わたしはゆっくりとはしごを上げた。水面を覗きこみ、ぶくぶくと浮かび上がる泡と、小さくなっていく影をただただ見つめる。最後に見えた知人の顔が、起きたあともしばらく忘れられなかった。人が死ぬ夢を見るといつもそうだ――どうもその最期の表情が脳裏に焼き付いて、しかも毎回安らかな顔をするものなので、余計哀しくなる。死にゆくことにそこまでの救いがあるのだろうか。どうして毎回「これでよいのだ」という顔をするのだろうか。おそらく、わたしにはその答えがわかる。わかるからこそ、苦しくなったのだ。