1グラムの思考

思ったことを文字におこしているだけのブログ

変わらぬものなどないという話

わたしはもともと小さなコミュニティでひっそりと生きてきた。仲の良い人間は少なく、限定的。ルーチンが崩れてしまうのがたまにこわくなるので、きっちりと自分の中の世界や理屈を創り上げてきた。

自分の居心地のよかった場所にあたらしい人やものが加わって、歪みが生じて、いままでとは流れが変わってしまって… そして途端にかなしく、いたたまれなくなるのは、きっとどうしようもないことなのだ。

いままでの何がいけなかったのだろう、変わらないままでいる方法はなかったのだろうか。あたらしい要素を取り入れても、たとえわたしの世界にひびが入ってしまっても、いままでの心地よさを維持できぬものか、と悩み、そして最終的には排他的な考えにたどり着いてしまう。ああ、内輪コミュニティとはこのようにしてうまれるのか、と絶望する。こんな独占的な、閉鎖的なものは望んでいないはずなのに、と。

とてもさみしくて、かなしくて、いままでのものを返してほしいなんておこがましいことなど言えるわけもなく、ひっそりと、心に刃を突き立てては「慣れろ、順応しろ」と繰り返し自分に言い聞かせるしかない。

まるでわたしだけが取り残されたようで、まわりはみんな受け入れていて、そしてじつに楽しそうにするのだ。「いままで」を惜しんでいる人がいるかもしれない、なんていう仮説が人々の頭をかすめることもなく、ただわたしひとりだけが駄々をこねているような、わたしが悪者のような環境が自然と出来上がる。そしてそれは間違いではない ― 客観的にみて、あたらしい人やものに抗い、拗ね、落ち込むほうが、よほど協調性がなくてわがままな人間なのだ。いつだって、時代の変化に異を唱え、過去にすがって文句を言う人間のほうが弾圧されてゆくのだ。

心が痛くて、その場にいるのがつらくなって、だったらいっそわたしを排除してくれ、とも言えず、わたしはまた中途半端にゆれる。みんなが楽しくしているのがいちばんうれしいはずなのに、どうしてもわたしのきもちの小さくて浅はかな部分が「こんなのはちがう」と主張してくる。だからわたしはその場から離れて、なるべく見えないところでおとなしくして、その輪から完全に離籍はせずとも物理的な距離をとって、一時的に避難をし、こっそりと身を守るしかない。


しかしわたしは十二分にこれを繰り返してきたではないか。そろそろ手放したらどうだ。学んだらどうだ。成長したらどうだ。

変わらぬものなどないのだと、心に、思考に、刻みこむしかないのに、どうしてこんなにも難しいのだろうか。

 

そして何よりも、わたしだって、同罪なのだ。わたしもだれかの居心地のよい場所に土足で踏み込み、奪い、そして自分のものにしては何食わぬ顔で楽しく日々を過ごしているのだ。わたしがいま立っている場所は過去にはだれかべつの人間の居場所であったはずで、それを知ったとしてもわたしの中では申し訳なさよりも安堵が勝るのだ。自分は奪うくせに他人に追い立てられるのは嫌だなんて、まったくわがままである。しかしわたしは声を大にしてそれを主張することも叶わず、たとえ他人になにかを変えられたとしても、しくしくと嘆いては、こうして書き留めることしかできないのだ。そしてふとおもう。わたしはやはり閉鎖的なモノのほうが性に合うのかもしれない。十分に身体を伸ばし、羽根を広げられる大きさの籠になら飼われるのもまたよいのかもしれないな、と。