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1グラムの思考

思ったことを文字におこしているだけのブログ

しあわせになるということの話

価値観

わたしの人生の願いはなにか、将来どのようになりたいか。考えていると、決まって同じ答えに辿り着く。しあわせになる。じつに難しい願いであるように思えるが、やはりこれしかないのだ。

そもそもしあわせとは何なのか。しあわせの定義はいろいろあるはずだ。自分の過去の投稿を漁ると、いくつかしあわせに繋がる要素が出てきた。
安息地、活字、話し相手、思考の材料、おいしい食事。
読書、おいしい食事、有意義な『会話』。
楽しいという感情、知的欲求を満たすことができる状況。
いろいろ書いているようだが、どれも密に関わり合っている。活字=読書であり、話し相手=有意義な『会話』でもある。これらふたつは思考の材料にもなり、知的欲求をも満たす。楽しいという感情はおいしいものを食べたり、安息地で心身を休めたり、なにか考え事をすることで得ることができる。つまりざっくりと凝縮させてみると、活字と食事と話し相手がいれば、わたしはずいぶんと健やかに生きていくことができるように思う。

しかし、上記はあくまでもしあわせに繋がるものである。究極のしあわせとは、わたしにとってのしあわせの本質とは。何度も何度も考えぬいた末に定まった。それは、愛し愛されることである。不思議なものだ… わたしはあまりロマンチストではないのだが、突き詰めてしまえば、わたしが心から望んでいることは愛という不確かなものなのだ。それは少々心地悪さを伴うようなことで、どうしてわたしはこんなものを切望しているのだ、と自問自答することも幾度かあった。愛、乃至感情というものは時間とともにゆらぎうるもので、見えるようで見えない、つかめるようでつかめない、蜃気楼のような曖昧さをもつものだ。こんなものに頼り、こんなものに心の拠り所を求めるなんて、愚かとしかいいようがない。

そもそも愛という概念も定義付けることが難しい。愛の形は千差万別であり、愛の表現法もさまざまだ。だれかの愛のことばも、空虚なものであるかもしれない。中身を、感情を、伴わない愛のことばなど、わたしは一生聞きたくない。あいしてる、なんて、軽々しく言わないでほしい。わたしはひどく弱い人間であり、ひとの心に触れたくて仕方がなく、虚しく響く愛のことばを聞いてしまうと、それは棘となってわたしの精神を傷つける。だからこそ、ことばを裏付けるものを感じ取ることができると、わたしはたちまち満たされるし、嗚呼、なんてすてきな響きなのだろう、と、わたしを傷めつけたことばは癒やしのものへと変化する。気持ちに自信がないときは、あいしてるだなんて口にしてはいけないのだ。逆に、ほんとうにそう想うことができるのなら、相手にしっかりと伝えるべきだと思っている。

なにをもってわたしはそのことばを信用することができるのだろう?わたしにとっての愛は、無条件なやさしさを伴う。やさしさ、と一言にいってもさまざまな意味をもつが、たとえばだれかのためを想ってなにかをする、見返りを求めずになにかをしてあげたくなる、うれしいときや哀しいときに向き合うことができる、必要なときにそばにいてあげることができる。これらすべてがそのやさしさの中に含まれており、わたしはだれかにやさしさを注いであげたいし、そしてその相手からもやさしさを注がれたら、それは愛になるのだ。一方的な想いは、愛ではない。すなわち、一方的な想いは、しあわせではない。


最近恋人と別れた知り合いに「きみの愛の定義は?」と聞いたら、「我慢の上に成り立つもの」と返ってきた。恋はただ表面的な部分を見て好きだと言えるが、相手のことを深く知ることによって嫌な部分も見えてくるかもしれない。それらに対して目を瞑った上で、好きという感情があるなら、それは愛だ、そう彼は語った。
つらそうだね、とわたしは言った。いつかしんどくなって、我慢することに心が疲れてしまわないかい?
それに対して彼は、疲れたことしかないから上記の定義になっているのだと思う、と答えた。
なんだかそれがひどくさみしくて、かなしくて、もっと恋をしよう、としか言えなかった。

わたしは恋愛において、正確には愛することにおいて、我慢はしたくない。それが重荷となって、いずれ疲弊してしまうことを恐れているからだ。しかしすべてがしっくり収まるような相手がそう簡単に見つかるとも限らない。なので、嫌な部分や相容れない部分があったとしても、わたしはなるべくそれをよいものとして捉えるようにしている。苛立ちや怒りはなにも生み出さない。疲れるのでわたしはあまり苛々しないようにしている。相手の嫌な部分も、考え方を変えてみればそれほど悪いものではないのだ。いかにそれをポジティブなものに捉えることができるかによって、ずいぶんと心の余裕ができる。残念ながら以前の恋愛は我慢ばかりで、いま思えば無駄な消耗も多かったような気がする。やはり我慢はよくない。


なんだかとてもロマンチストな文章になってしまったが、ばかだなあ、と思いつつも譲ることができない自分のしあわせと愛の定義に苦笑するしかない。やさしいひとになりたい、と言ったことがあるが、だれにでもやさしくすることは実現困難なので、せめて愛する人にたいしてはやさしさを向けたいと思っている。そして願わくば、その人も同じように想ってくれれば、わたしはしあわせだと言えよう。