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1グラムの思考

思ったことを文字におこしているだけのブログ

歩み寄るということの話

価値観

すこし昔を思い出していた。人が人と向き合い、付き合っていく上では歩み寄る必要がある。我を通すだけではいけないのだ。時には自分のほうから一歩、二歩、と相手のもとへすり合わせ、お互いが納得できる中間地点を探すことが大事である。

とくに難しいのがコミュニケーションのとり方である。わたしはどうでもいい人間にたいしてはずいぶんとずぼらな対応をしてしまうが、それでも会話を途中で放棄するということはしたくない。どうでもいい相手であってもわたしはひとりの人間と話しているわけであって、少々強引に会話を終わらせることはあれど中途半端なところでふいに連絡を途切れさせる、ということは、明確にそのような意図を持たない限りはあまり好ましくない。
わたしが以前よく連絡をとっていた人間は、平気で会話を宙ぶらりんにするような人間であった。中途半端すぎてどうすればいいのかわからないから、会話を終えるならちゃんと終える、終えないなら連絡を返す、どちらかにして、と頼んだ。何かを確認したくてわたしは返信を待っているのに、「返信がないということは問題ないということだ」なんて言われても、確信がないので何もできない。いいよ、とか、いらない、とか、後で、とか、一言でもいいから何か示すようなことを言ってくれ、と頼めば、そのひとはわたしを「わがまま」だと言った。返信がないということは本当に問題がないからなのか、あるいは見ていないからなのか、判断がつかないではないか。
だれが間違いでだれが悪者かを決めるためにこの例を出したわけではない。ただ、どのような例であっても、人が(そして相手との距離が近ければ近いほど)「こうしてほしい」と頼んだことを、ばっさりと切り捨ててしまうのはいかがなものか。どうもゆるせなくて、わたしはずいぶんと抵抗した。たった一言の返信、なぜそれができないのか。それはあなたが面倒がっているだけなのではないのか。仮に面倒だとしても、親しい仲であるからこそ、すこしでもこちらの意図を、懸念点を、汲みとって歩み寄る姿勢を見せるべきなのではないのか。そのひとはしぶしぶ承知したが、このすり合わせを「自己犠牲」だと言った。合わせてやった、だとか、考慮してやった、だとか、どうして恩義せがましく定義づける必要があったのか、わたしにはわからない。ひととして向き合い、付き合っていくということは、お互いの価値観を尊重しつつも静かに距離を縮めて空白を埋めてゆくことなのではないのだろうか…。

もちろん、わたしが提案したことをすべて呑みこんで合わせろと言っているわけではない。下手に出て「お願い」に見せかけた抑圧をしたいのではない。たとえば、わたしが「そういうことしたら、こういう気持ちになるので、もう少しこうしてほしい」と説明をしたとする。しかしその提案が相手にとって困難なものであった場合、わたしは理解できるのだ。わたしがお願いするのとおなじで、相手もお願いしたいことがあるのかもしれない。だからわたしのほうが先に一歩踏み出して相手の理想に近づくことができる。しかし、相手には知ってほしいのだ。これ以上なにも言う気はない、責める気もない、ただ、わたしが主張したことを認識してほしい。プレッシャーを与えるためではない。自己犠牲をしたのだと思い知らせるためでもない。単に「距離を縮める」という行為において、ひとがなにを思い、なにに悲しみ、なにに難しさを感じたのか、そのこころの揺れ動きや価値観を知るのは大事なことのように思う。