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1グラムの思考

思ったことを文字におこしているだけのブログ

『会話』の話

価値観

香りのよいブラックコーヒー、山、雪。これらがあれば、わたしの人生は潤う。
読書、おいしい食事、有意義な『会話』。これらはわたしが健やかに生きる上で必要不可欠なものたちだ。

とくに『会話』というものは定期的に提供してやらないと、思考が自身の中に留まってしまうことにより膨大にふくれ上がり、やがて爆発してその蒸気にわたしの精神はひどくやられてしまう。


しかし難しいことに、会話といえどもふつうの雑談とはわけが違う。こころに触れる必要あり、素直な自己開示を要するので『会話』をする相手を見つけるのは至難の業である。しかもこの『会話』というものはわたしが一方的に語ったところで何の意味も成さない。お互いの間に信頼関係があり、相手の奥深くに踏み込み、そして相手にも踏み込まれてはじめて成立するものだ。感情を露わにする過程であるのだが、感情を剥き出しにしてぶつけるという意味ではなく、自身が感じたことや思ったことと向き合って「なにを思ったのか」「なぜそう思ったのか」を言語化する必要がある。あくまでも静かに、しっぽりと、言葉を紡がなければならない。『会話』をするときは水滴がぽちゃん、と落ちて細やかな水紋を描くようなイメージが脳内に浮かぶ。


『会話』は自己のことを探ると同時に、相手のことを知ることである。嘘偽りないものであり、わたしはとても丁寧に、懇ろに、言葉を選ぶ。時間がかかる作業である。靄のような思考を手繰り寄せ、なるべく正確に伝えようと適切な表現を当てはめ、形にしなければならない。これはじつに難しい作業であり、時折わたしは上手に表すことができずに、ずいぶんと長い間口をつぐんでしまうこともある。それでもいずれ、拙い言葉たちに想いを託し、わたしは『会話』を完成させるのだ。


相手の語る番になれば、わたしは全神経を集中させ、あらゆる情報を読み取ろうとする。言葉の間、息遣い、声色、纏っている雰囲気。見えるものよりも、感じ取れるもののほうがよほど大事である。きっと顔の表情も情報源ではあるのだが、『会話』をするときに至ってはわたしは感覚的にものを捉えるほうを好むので、やはり見ずともよい。強いて言うならば、顔全体の表情よりも、瞳を観察したい。瞳が揺れたり、逸れたり、細められたり、とても感情が豊かなものである。相手が言葉を発すれば、それはしずくとなってわたしの心に滴り、ゆっくりと染みこんでゆく。しばしその思考にたゆたう… この瞬間はまるで時間が停止したかのようで、わたしの意識はこの思考の泡に取り込まれる。


『会話』がなかった時代がある。正確には、『会話』はある時を境に生まれた。それ以前はわたしは自身の想いをさまざまな媒体に吐き出し、そしてそのどれもが誰の心にも届かないことを悔やんだ。想いを救いたい一心で『会話』を試みるが、やはり適切な相手がいない。哀れな言葉たちは会話を前にあっけなく散ってしまい、やがて忘れ去られていった。

『会話』に飢えているような気がする。とくに語りたい話題などない。ただただ、心に触れ、向き合い、わたしは自分を大切にすることができ、また相手を大切にすることもできるのだと、実感がしたいのかもしれない。