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1グラムの思考

思ったことを文字におこしているだけのブログ

Q1 のまとめ

振り返り

四半期がおわる。2016年になり、1月から3月まで、わたしは様々なことを思い、体験したように思う。Q1 のまとめ、ということでいくつか思っていたことを書き記す。


1月。三が日を実家で、ひたすら飲み食いしていた。怠惰のきわみであった。体内時計の関係で相も変わらず早起きではあったが、午前中のうちから酒を呑んでいた。ワインの栓が開くときの小気味いい音を聞いては、昼前から酒を食らうことの背徳感に酔っていた。わたしがその三日間で家の外に出ることがあるならば、それはずばり、酒を買うためであった。普段家で酒を呑むことはさほどないので、年末年始のこの堕落っぷりは楽しくもあり、わたしは毎年喜々として酒瓶を抱えるのだ。こうして書くとまるでわたしがひどく無責任な酒飲みのようにみえるが、酒に関する話はまた今度機会があれば書くとする。そんな三が日も終わり、4日からようやくいつもの自分の生活に戻る。この日を境に、わたしは多くのことを考えることになる。

2月、自分のこれまでの人生と向き合う。わたしは今まで何度、言葉を紡ぐことを諦めた?数えきれないほど自分の意思を窮屈な箱に押しこめ、蓋に鍵をかけ、そしてその鍵を他人に預けてきた。わたしひとりでは内側から開けることができないという事実がこわくて、目を背けて箱の外の存在を認知することを否定して、わたしは多くの事柄を「仕方ない」の一言であまりにも安易に片付けてしまっていた。いい加減、わたしはわたしのこころを、からだを、声を、取り戻すべきなのかもしれない。そう決心してようやく、否、はじめて、重い腰を上げたのだ。

3月、ずいぶんと穏やかな日々を過ごすことができている。抑圧がなくなり、今までやりたいと思っていたことが多数あるが、ゆっくりと、ひとつずつ、満たしていっている。このくらいのペースでいいのだ。もともとわたしは多くのことを一度にすることがあまり得意ではない。自分の気の向くままに、気負ってしまわない程度に、今を生きていくことができるのならそれでいい。


わたしは2016年が終わるとき、あるいは2017年をむかえるとき、どこでなにをしているのだろう。今後の目標と聞かれれば「どこで何を食べる」「山籠りをする」「ハマーを買う」という曖昧なことしか思いつかなったわたしで、ただぼんやりと毎日を生きていたわたしだが、ついに明確な目標ができたように思う。まずわたしは東京という地を離れなければならない。ここは情報量が多すぎる。わたしたちの目に映る東京はずいぶんと発展しており、あらゆる欲望を満たすことができる、綺羅びやかな都市である。しかしその華やかさの下は、じつに薄く実体性に欠けるモノであり、わたしのような人間にとっては不必要な情報が多く、究極的に求めている欲求を提供してはくれない。こういう話をすると大抵否定的な反応が返ってくるので場の空気を保つためにも黙っていることが多かったのだが、ここ数ヶ月で共感してくれる人を何人か見つけることができた。わたしがもともと住んでいた神奈川はよいところであった。古き良き日本からはだいぶ離れているが、それなりに個性があり、こころが安らぐ場所もいくつかあった。

わたしは自分の交友関係を見つめなおした。楽しくない、何もうまない繋がりに意味はあるのだろうか。関わる度に不快な思いをするくせに、どうしても断ち切れずにいた不健康な関係性の多くに終止符を打った。決心さえついてしまえば、じつに簡単な作業であった… もう構わなければいいのだ。高校の頃の同級生、些細なきっかけで連絡先を交換した知り合いの知り合い、以前仕事で関わった人。その人たちのいない日常を想像して、わたしは何も悲しくも寂しくもないことに気付く。幅広く浅く繋がりを保とうとするよりも、いまある数少ない繋がりにもう少し意識を向けてみよう。引き続き清算は続く。

わたしがしあわせになるためにはどうすればいいのか考えた。わたしに必要なもの、それは安息地、活字、話し相手、思考の材料、おいしい食事。わたしはあまり要領が良くないので、常に気を張って過ごしている気がする。心配ごとを手放し、こころの底から安心ができる環境が必要だ。また、思考停止は死を意味する。わたしは考えることをやめたくないし、なにより思考を巡らすということが楽しいのだ。活字はじつによいインプットになり、幼い頃から読書が好きだった。読んだことに関して考えるのは満たされる作業である。話し相手というのはインプットとアウトプットの両方に当てはまり、わたしは利口な人や言葉がうつくしい人と話すことにより満足感を覚えることができる。基本的に人と話すことは嫌いではないのだが、話の内容、選択される言葉、相手の振る舞いなど、気になることが多すぎて、大抵気疲れしてしまう。精神的に疲弊しない話し相手というものは稀有である。最後に食だが、わたしは生きるために食べるのではなく、食べるために生きる節がある。毎食を楽しみにしているし、あれが食べたいこれが食べたい、と常に思っている。朝食を食べながらも昼食のことを考え、昼食が済めば夕食を楽しみにして午後を乗りきる。舌が特別肥えているわけでもなく、極端な話インスタントのカップ麺でも喜びを得られるので楽なものである。


ずいぶんと多くのことが起こった三ヶ月のように思う。去年末、わたしは「2016年は実りのある年にしたい」と語った。わたしはその種を巻き、毎日ほんのすこしずつ耕していっている。どんな実をつけるのか、どれほどの収穫を得ることができるのか、まだまだ未知数ではあるが、なにか天変地異が起きてすべてを呑み込み、焼き尽くしてしまわない限り、無駄になるということはないだろう。