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1グラムの思考

思ったことを文字におこしているだけのブログ

心配性な話

物事が起きる前から、「こうなったらどうしよう」とシチュエーションを想像して心配になることがある。
きっとそれはわたしだけではなく、わりと多くの人が考えていることだと思っている。
わたしは基本的に人の目というものを大変気にする性格で、かつ心配性なので「もしわたしが何かをして、ああいう印象を与えたらどうしよう」だとか、「もしわたしが何かをして、他人に影響を与えてしまったらどうしよう」と考えることが多い。それは大きな選択を迫られた際に考えるのではなく、日常的な、ほかの人なら気にも留めないような細かい出来事にさえも、自分の言動の影響、あるいは意味を考えてしまう。

また、わたしはわたしのせいで誰かの評価や印象に影響を与えてしまうことを常に心配している。わたしは恥ずかしくない人間なのだろうか?わたしは誰かのためになる人間なのだろうか?自分の存在感のなさをひしひしと感じながら生きてきたので、わたしと一緒にいるところを見られて、まわりに何か思われないのだろうか?と思うことがある。
そんな疑問はきりがなく、また自意識過剰なほどくだらないことだとはわかっているのだけれど、それでも気にしてしまうのだ。それは心配性な部分だけでなく、劣等感を抱いている部分からもくる不安であって、「わたしはこの人とは釣り合わない」と思うことがある。
たとえば、大学生の頃、人懐っこく友達の多い女の子とそれなりに仲良くなった。彼女は友達が多く、常に予定があるような子だったが、わたしと1年ほど部屋が隣同士だったので顔を合わせる機会が多かった。彼女とふたりで学食でごはんを食べているとき、ひっきりなしに彼女の友達から声がかかる。最初のうちはわたしも顔をあげ、挨拶をするのだが、向こうはわたしのことなど眼中にない。彼女との会話に夢中になり、わたしは思うのだ。わたしがもう少し友達を作っていれば、こういう状況など起こらなかったのかもしれないのに。そして会話が終わる頃になって、その知らない人が去るとき、不思議な視線を感じることがある。「誰だこの人は?」と。
それを知ってからは、誰かが話しかけてくる度にわたしは空気になる空気になると自身に唱えながら、自分の皿に乗せられた食材をじっと見つめる。わたしは知ってるのだ。ふたりの会話に参加するタイミングを見計らおうとしている様子が少しでも相手に伝わると、相手に気を使わせる、あるいは憐れみの感情を抱かせることを。「あ、あの子参加したいのかな、なんか困ってる様子だな」と思われるのが、激しく不快だった。
困ってる、もしくは焦っていると思われるのがあまりにも嫌いで、わたしは普段から平然を装うことが多い。なにかをなくしても、「そのうち出てくるでしょう」というスタンスを貫く。あまりにもそのマインドセットにこだわりすぎて、もはや本当にそう思っているのか、それとも本当は焦っているけど隠しているのか、わたしにはもうわからなくなった。おそらく前者であってほしい。焦ったところでなくしたものは出てこないのだ。冷静でいることが大事だ。…本当に?
そして少し話は戻るが、わたしは大学の留学生を対象とした大きな生徒団体の生徒会長を務めていた。人前に立つ度に「誰だこの人は?」という声があがった。「あの子しってる?」「しらない」。他の生徒団体の会長が登壇にあがると、「あーあの子ね」「見たことある」。自分の存在感のなさを毎回呪った。それは今でもそうなので、だれかと一緒にいるときは「わたしがここにいて何かマイナスな印象を与えるのではないか」と不安になる。

あまりにも飛躍した心配事や不安は、身を滅ぼすだけの妄想にしかならないのはわかっている。わかっているはずなのだが、それでも実際に悪い結果を体験してしまうと、何事にも身構えてしまうのだ。この選択肢でよかったのか、わたしは自分に価値を付与することができたのか、この価値は十分なのか。おそらく十分ではないと思っているから、わたしはいろいろなことを気にしてしまう。