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1グラムの思考

思ったことを文字におこしているだけのブログ

自分が死ぬということの話

価値観

わたしは毎日死んでいる。それも一度や二度ではなく、だいたい1日に二十回くらいは死んでは生き返るプロセスを繰り返している。わたしにとって死ぬこととは、精神的につらいと思うことと少々性質の異なるもので、おもに思考が停止、あるいは思考が許容量を超えてしまうことである。もちろん、気持ちが落ち込んでいるときに死ぬこともあるが、気持ちが落ち込む理由としてわたし自身の思考が深く関わっている。一瞬で死ぬこともあるが、たいていの場合は頭を、心を、蝕まれて死んでゆく。
死を経るペースと生き返るペースはわりと比例する。空から落下して地面に叩きつけられるように死ぬと、飛び散った部分がすぐに一点に集中してまたわたしを形成する。逆に、底なし沼に足をとられてじわじわ沈んでゆくように死ぬと、這い出すのにそれなりの時間を要する。

死んで生き返るという行為はかれこれ10年ほど続いていることである。昔はもっと短絡的に死んでいた気がする。つらい、死のう。死ぬことによって物事をやり過ごしていた。死んでいる間はなにも機能しないので、生き返る頃には状況が多少よくなっていることがある。時間を意のままに進めることは不可能なので、その間の時間を死という無で埋めるのだ。
今も雑な死に方をすることが多いが、昔よりかは計算した死を織り交ぜられるようになった。死ぬというのはある意味わたしにとっては正しい選択であって、死んで生き返るとだいぶリセットされる。大きく逸脱してしまったところを、完璧にとは言わずとも、ある程度は中心に引き戻すことができる。わたしの思考の健やかさは、ビルの間に張られた一本のロープのようなものだ。風や恐怖、もしくは他人によって煽られると、いとも簡単にバランスを崩してしまう。うまく持ちこたえる場合もあれば、あっけなく落ちてしまう場合もある。

考えるのをやめたとき、死ぬ。脳死状態。考えることを自ら投げ出してしまうような愚かな行為を取るとき、あるいは他人の影響で思考を停止せざるを得ないことになったとき。
思考が無秩序になったとき、死ぬ。あまりにも考えなければならないことが多すぎて乱雑になってしまうとき、あるいは矛盾が蔓延して自身を失ってしまいそうなとき。
思考を上手に言語化できなかったとき、死ぬ。考えていることをうまく言えないためのフラストレーションではなくて、あまりの難解さに短絡してしまうとき。
感情が高ぶると、死ぬ。苦手な感情を抱いてしまうとき、あるいは精神衛生に関わるとき。大変労力を費やす。

蝕まれるように死ぬと自己の処理能力が追いつかずにどうしても内面の容器から溢れ出してしまいがちで、そういう場合は行動がゆっくりになってしまったり、何事にもしっかりと向き合うことができなくなってしまう。二酸化炭素を排出するだけの肉片と化すこともある。じつに有害な存在だ。調子がよい時は、すこしでも安らかに死ねるようにと、蝕まれながらも何かに没頭することもある。が、そうするとそれ以外の「外」のことが疎かになってしまうので、結局は有害な存在になる。

せめて死ぬのなら周りに迷惑をかけずに勝手に死ねばいいものを。たまにではあるが、死を察知すると自分を隔離するためにどこかべつのところに移動することがある。静かで、かつできるだけ人がいないところをふらふらと探し求め、見つけたらひっそりと死の床につく。わたしは今朝、仮眠室の一角で死んだ。暗くて狭くて静かで、とてもよい死に場所を見つけた気分になって、少し楽しい気分で生き返ることができた。

きっと「死なない」なんて選択肢はなくて、いくら誰かが死の淵に立っているわたしの手を必死に引いたとしても、わたしはそれに応じることも振り切ることもせず、無重力状態で逆さまに落下していくのだろうと思う。だれかがわたしを死なせまいとしたことなんて過去に一度か二度しかなかったけれど、そういう場合は落下する速度が著しく低下する。生き返るのに全神経を使わねばならないから疲弊する。
どうせ死ぬんだから、離せばいいものを。