1グラムの思考

思ったことを文字におこしているだけのブログ

名前をつけて合理性を持たせるという話

わたしは物事に、概念に、感情に、名前をつける行為をよくする。よくする、と言うとなんだか好みであるように聞こえるが、実際は固執している気がする。
名前をつけるということによって何かを確立させ、意味を持たせることができる、そう思っている。
しかしその意味でさえも、結局は自分自身のためなのだ。名前をつけて意味を持たせたところで、その「もの」(物事であれ概念であれ感情であれ)に特別な何かが付随するわけではない。

なぜ名前をつけたがるのか。それはその「もの」を枠に押し込みたいからだ。枠に押し込んで価値を与えることで、それをコントロールしやすくするからだ。合理性を持たせるためだ。

そして、合理性、とは。
わたしが思うに、合理性とは信じる、あるいは納得させるための、理性的行動である。
理屈に当てはめて他人もしくは自身を納得させるための言い訳である。

たとえば、わたしは今日とある芸能人のニュース報道を読んだ。その人は既婚者とふたりきりで食事をし、相手の実家を訪れたらしい。ただそれだけのニュースなのだが、このわずかな情報から世間はひどく短絡的に、結果論として、その芸能人を批難した。間を埋める情報がないのに、真実などそっちのけで、世間はこの一連の騒動に「不倫」という名前をつけた。名前をつけることによってその人を批難しやすくし、また自身の説得性を持たせたのだ。それが本当に不倫だったかどうかなんて二の次であって、とりあえず見えているものを自身の知っている単語に当てはめた結果、「不倫」がもっとも適切だと判断したのだ。そして、批難という行為に合理性を持たせた。
しかしこの批難は見当違いも甚だしい。わたしたち第三者に、その芸能人の不倫はどんな影響を与えたのだろうか。たとえばその芸能人が出演しているテレビコマーシャルの製品会社の社員なら、少なからず影響を受けるかもしれない。しかしわたしや、わたしの周りの人たちにとって、その芸能人はまったく関係のない他人であり、その芸能人が何かをしたところで何も変わらないのだ。そんな他人が、なぜその芸能人を批難する?その人は悪だとなぜ言い切れる?どうしてこの批難を「合理的」なものだと主張ができる?

合理主義は、いわば自己完結だと思う。
結局は自分が信じたいもの、信じているものに名前をつけ、型に当てはめ、押しこんで「真理」とすることで自己完結しているのだ。それが正しいと思い込むのだ。思い込むことによって、好き勝手に解釈をし、転がすことができるのだ。


そしてわたしも例にもれていない。上記の芸能人批難を批判こそしているものの、名前をつけることに固執することによってわたしも別の機会においてはきっと同罪なのだ。
たとえば、感情。感情なんて十人十色で、定義などない。わたしの怒りは他人の怒りとは異なる性質を持つかもしれないし、わたしの愛は他人の愛とは似ても似つかない形なのかもしれない。だがしかし、わたしはその感情に名前を与えることによって、自分の分析結果や価値観に意味を持たせ、合理的だと主張するのだ。

合理的な選択は、時としてもっとも生産性のある、いわばベストな選択である。理屈に当てはめているので、筋が通っていることがほとんどだ。だからこそ、人は納得をするための材料として合理性を場に出す。

だがしかし、合理性には限度もある。合理的な選択だけでは、たどり着きたいところにたどり着けない場合がある。そういうときは非合理的な選択をしなければならないのだが、むずかしいことに、その非合理的な選択をするためにも理由、すなわち合理性を持たせようとするのだ。今まで合理的に物事を進めてきたが、今から非合理的な手段を取る理由は、こうです。自身、あるいは誰かを納得させるのに必死なのである。合理性から逸脱するために合理性を持ち出すなんて、じつに不思議だ。


感情を例とするならば、まずはとある気持ちに対して恋という名前を与えよう。なぜ恋という名前にしたかと言うと、特定の人と話すと満たされるからだ。その人のことを夜寝る前に考えてしまうからだ。そして恋というものなので、その人ともっとお近づきになりたいと思っている。お近づきになりたいので、その人にもっと話しかけるべきだ。しかしその人にはすでに別の仲の良い人物がいる。ここは引くべきなのかもしれない。引いたほうが荒波を立てないし、他人を困らせることもない。だが、ここで諦めてしまうのは躊躇われる。後になって後悔するかもしれないので、やっぱり話しかけてみよう。

上記のシナリオで、わたしは状況に名前をつけ、名前に理由を紐付け、その名前だからやるべきことがあると認識し、ぶち当たった問題に対して合理的な選択を見出したが、非合理的な道を選ぶことに理由をつけた。この一連の流れは大小問わず、日々わたしたちは行っているのだ。無意識だろうが意識的だろうが、何かに理由をつけて、型に当てはめて、「合理性」という旗を掲げて勝ち誇った気になるのだ。

わたしはべつに合理主義というものを批判しているわけではない。批判してはいないが、よくよく考えると合理性というものはひどく独りよがりで自分勝手なものだと思うのだ。そしてそれはとてもおもしろい。わたしは冒頭に書いた通り、名前をつけて合理的であることをやめないだろうし、きっとやめられないのだが、それを間違いだとは言わない。たとえそれが非合理的な考え方だとしてもだ。