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1グラムの思考

思ったことを文字におこしているだけのブログ

『善悪の彼岸』フリードリヒ・ニーチェ

引用句

『善悪の彼岸』フリードリヒ・ニーチェ

" 繋がれたる感情と繋がれざる精神。―感情をきびしく縛れば、精神には多くの自由を与えることができる。"

善悪の彼岸を再読した。最初に読んだときから3〜4年経った今のほうが、共感できる部分が少し多かった気がする。とくに第四章の「箴言と間奏曲」は短い文が書き連なっていて、初めてニーチェを手にする人でもある程度の共感、或いは反感を覚えることができるだろう。
上記の引用句はその「箴言と間奏曲」から抜粋した一文である。

感情と精神は密に干渉しあっているが、それが必ずしも双方によい影響を与えているとは限らない。
感情というものはよくも悪くも非論理的であって、人の思考を飛躍させることも麻痺させることもできる。
感情に縛られすぎると、知的思考、そして精神的自由をも制限してしまうのだ。

わたしは「自由」というものを渇望していて、その執着ぶりはさながら大空を夢見る蚯蚓のようで、我ながらなかなか滑稽だとも思う。蚯蚓である以上どうあがいても大翼など手に入らぬものなのだが、求めずにはいられないのだ。そしてそれは感情という部分にひどく縛られている。欲しているこの心は不条理そのものだ。叶わぬ夢だということが明白でも、感情というものはずいぶんとわたしに無茶をさせる。そしてこうして縛られていると、正常な判断が下しにくくなる。感情のせいで幻想に囚われ、精神的自由さえも失われているのだ。

しかし、感情というものはどうすれば縛ることができるのだろう。存在を認知した上で無視をするのと、完全に縛ってしまうのとでは、結果は似たようなものに見えても実際はかなり異なる展開なのだ。無視をするのはその場凌ぎでしかない上に、本当の意味での精神的自由ではない。たとえば、わたしは今まで前者をこなしてきた。焦がれるほどの自由への憧れを、わたしは押し込み、また感情に縛られている自分に落胆、幻滅をして、押し殺してきたのだ。わたしは、わたし自身を抑制することで、「わたし」になったのだ。結果的に、わたしは合理的に生きてきたつもりである。しかしそれでもなお、このように自由への想いを文字におこしてしまうあたり、何ひとつ縛ることができていないのだ。

感情はじつに表面的なものなのかもしれない。時によってはその一瞬のうちに沸騰し、そしてあっけなく蒸発していくものなのだ。精神こそが、己のうちにある核の部分であり、鎮火させられるものではない。だからこそ、感情が精神を凌駕してはならないのだ。

自分はなにがほしいのか?なにを成し遂げたいのか?すべての答えは精神からくるべきものであって、決して感情で判断をしてはならないのだ。
そうなるとまた表面化する問題が、ではどうやって感情を縛るのか?である。
残念ながらわたしは縛る術を習得していないし、知り得る見込みもまだない。もし感情を完全に縛ることができたら、それはどのような人間なのだろう。
果たして感情の存在しない人間は、人間と言えるのか。
人類というものを卓越した、精神上の概念に成り果てるのではないのだろうか?