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1グラムの思考

思ったことを文字におこしているだけのブログ

我慢の話

価値観

わたしはいろいろと我慢を強いられている気がする。否、強いられているという前提のもとに生きている。
幼少期より我慢というものに救いを求めてしまっていたのがそのまま染み付いて大人になってしまった感じなのだろうか。
わたしの人生は、我慢をすればわりとうまくいくことばかりなのだ。
そして我慢をすることにより、他人にかける迷惑を最小限に抑えることができることに気づいてからはもう我慢をするという行為からは抜け出せなかった。信じられないかもしれないが、とてつもなく心地の良いものだったのである。我慢をしているという認識さえも取っ払ってしまえば、そこに残るのは「最小限の労力で他人を満足させることができる」という事実だけである。

だけれど、わたしが我慢をすることに対して異を唱える他人がいる。それはちがう、と諭そうとする者がいる。きみのその思考は危険だ、と心配する者がいる。
なにが違うのだろうか。我慢をするというのも一種の対人スキルではないのか。わたしはどうでもいいのだ。他人がよければ、わたしもよい。わたしにとって一番の苦痛は、他人に迷惑や面倒を与えることなのだ。自分自身の精神衛生のために、わたしは我慢を重ねるのだ。


そして考えてみた。だれにも迷惑をかけていないのならば、まわりを振りほどいて好きなようにすればいいのに。しかしそれをなかなか実行にうつせないのは、わたしが小心者のせいなのか、それともべつの理由があるのか。
きっと両方なのだ。

わたしはひどく臆病な人間だ。自分が傷つくのがこわくて仕方がない。他人を傷つけるのがこわくて仕方がない。自分を、もしくは他人を、守るためにわたしはいつも慎重すぎるほどに生きてゆく。

だれにも迷惑をかけていない、なんて仮定はどこからやってくるのだろう。人というものは、迷惑を一切かけずに生きるのはむりなのだ。度合いは小さくとも、なにかしらの迷惑はかけているのだ。

そしてさらに、まわりを振りほどいてまで好きなことが果たしてしたいのだろうか。臆病な上にめんどくさがりなわたしは、他人を説得し、もしくは他人と衝突してまで、好きなことをしたいとは思えない。冒頭の我慢に戻るが、わたしが好きなことを我慢すればさまざまな感情を曝け出さずに済むのだ。他人に服従することにより、他人の支配欲を満たすことも、わたし自身の平穏も満たせるのだ。

自分ひとりが被ることで、その他多数が平和なら、それのどこが間違っているのだと言うのだろう。

最小限の犠牲に抑えているという点では非常に理にかなっているようだが、なぜこうも人々はこれを憐れむのだろう。自分を大切にしていないと、なぜ言い切れるのだろう。

わたしは本当の意味で満足というものを知ることができるのだろうか。
わたしは本当の意味で他人を満足させることができるのだろうか。