1グラムの思考

思ったことを文字におこしているだけのブログ

Q4 のまとめ

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こうしてまた四半期が過ぎ、年も明けた。まずは10月から12月の自分の日々を振り返ろう。


10月。公私ともに充実。計2週間ほど国内旅行をして、山に囲まれた生活を楽しんだ。やはり山は良い。仕事では昇進をした。たくさんの人に褒められ、お祝いの言葉をかけられた。慣れないことなのですこしどぎまぎ。昇進できなかった友達は泣いていた。それでもわたし頼って相談してきたのは嬉しいことなのだが、「友達」という存在ができてまだ日が浅いわたしは、どのようにして慰めればいいのかよくわからなかった。またしてもどきまぎ。

11月。コミュニケーションの難しさを痛感するような出来事が何回か。衝突を重ねながら、いかにすれば他者と理解をし合えるのか、歩み寄ることができるのか、価値観を上手に伝達することができるのかを考える。衝突、と言えども、これはたいへん良いことである。今までは諦めていたのに、諦めずにわかり合おうと努力をするようになった。月末には海を渡り、異国の地で観光客気分。その地の長く混沌とした歴史に触れ、そして日本もまたこのように歴史を曝け出せばよいのに、と思った。

12月。親と子の関係について再度考え、悩む。わたしがこれから取るべき道は一体何なのだろう。22日で仕事納めをし、人生で初めて、自分のではなく他者の家族と年末年始を過ごした。緊張をしつつも楽しく、充実した休みであった。体調を崩してしまったのが残念であったが、それでも良い日々を過ごしたと思う。わたしはやはり山が好きだ。山が好きで、暗い夜が好きで、冬の雪が好きだ。


Q4 はずいぶんといろいろなところを見て回れたような気がする。東京を離れる時間がたくさんあってとてもよかった。次の四半期、2017 年度の Q1 は、すこしやることや考えることが増える気がする。それに初めてマネジメントをすることになる。部下というほどではないのだが、一応わたしが選んで雇った人に仕事を与え、メンタリングをし、指示を出す… というのは、なかなか難しそうだ。仕事はきっちりやれど、勤務態度は少々自由すぎるのは自覚しているので、どのようにして上手にやっていけばいいのか考えなければいけない。

Some thoughts from today

After a satisfying getaway, I was quite looking forward to seeing a few folks from work. We get along well (for the most part) and have these gatherings periodically, which turn out to be fun nights. Today was no exception - good food, good drinks, good conversations; and when I say good conversations, I'm not necessarily talking about the content, but rather the whole situation and how conversations are handled. There were seven of us in total today, and no one was ever left out from a conversation. Usually there would be two or three conversations going on simultaneously, and it would be extremely easy to switch from one to another, or just chirp into multiple discussions.

Towards the end though, things started to get uncomfortable. As a whole, I would definitely give the night a passing score, but I was upset enough to come back home and feel my heart getting stabbed with some dull blade. Subsequently, I shed tears for quite a long time.

I have a very clear line between a 'friend' and others. If you're a friend, then you have my trust, and I expect something similar in return. In addition to being mutual, being a friend means my thoughts are free to flow in your presence. Honest thoughts, too. When you're not a friend, you mustn't try to step into that zone. It's absolutely horrifying, how some people have no manners whatsoever. No, I did not let you into my room. And no, you may not trample in with your dirt-caked outdoor shoes. I wouldn't push the red emergency button without warning (because that metal shutter would probably behead you), so when I give signs telling you to back off, then you back off.

Today, people didn't back off. They were so interested in other people's personal lives. Sure, I can talk about my personal life, but a restricted section does exist, obviously. Taking a step back apparently means "take another step forward" to some others. I step back because I am uncomfortable telling others my true thoughts, my situation, my emotions. But when people press me, I would have to mutter something in return - and in almost all cases, these are false words that do not do justice. They're concocted, faulty, and absolutely misrepresentative of me. I don't even know why I'm pushing out these words. Yap yap yap, oh wait, are we talking about Persona A here? Or was it Persona B? Damn it, did I mix up Persona C and D?

Lies are hard to tell, especially since I was trained (deliberate word usage here) to tell lies as I grew up. I deceived to protect my sole rights, my dignity, my relationships, and the list continues with a few more critical things that people need balanced in their lives. So whenever I have to tell a lie, it feels incredibly wrong. My heart beats fast, I feel my face flush (thankfully my face doesn't redden so much and won't be an obvious giveaway), and I just want to disappear. Maybe just perish. I want to sink into nothingness and hope I don't exist. And when I try not to lie as much as possible, I would talk some kind of gibberish under my breath and would not give a clear answer to a question. When someone presses again, then I have to stupidly agree with whatever option that will get me in lesser trouble. It may be lesser trouble for a while, but as it piles up it spins out of control. What am I getting myself into? What mess has this become? I don't even remember what lies I made to whom, and I get some facts mixed up. What a disgusting sight; lies to paint over other lies, then more lies heaped upon it to conceal the previous lies... And then here I am, wishing I was a pebble. Or maybe a sesame. Or a chili flake. Whatever small, seemingly harmless, and ignored.

人間と関わりたくないの話

じつに傲慢な願いがある。わたしはわたしが関わりたいと思う人間とだけ、関わってゆきたい。話したり、一緒に何かをしたりなどの直接的な関わりがなくても、視界に入っているだけで嫌だ。居なければ良いのに、と思う。それは「死ねばいいのに」とは違っていて、きっと周りが思うほど暴力的な感情でもない。わたしはその人たちに恨みはないし、嫌いでもない。「関わりたくない」と言うとネガティブな印象を抱いているように思えるが、正確には、「別段関わる必要がない」だけだと思っている。

わたしはもともと人混みが嫌いで、午前中の駅でたくさんの見知らぬ人を見ながらふと死にたくなった。人を見るのがストレスになっている。人、と一概に言っても、たとえばわたしは知り合いとはご飯に行くし一緒に遊んだりもする。それらの知り合いはわたしが関わりたい、と思ったのでそのように予定を立てている。それはストレスではない(人と会う予定を入れすぎると疲れてしまうこともあるがそれは別の話なのでここでは割愛)。ただ、どうでもいい人間、取り立てて一緒に居たいと思わない人間が、とてつもなく嫌だ。

それは会社でも一緒で、わたしは自分が話したいと思う知り合いだけが目に入ってほしい。その他の知り合いは視界から消えてほしい。存在すらも認知したくないのだ。これは切実に思っていて、本当に見たくもないし、その人のメールや投稿も目に入ってほしくないし、だれかの口からその人の話を聞きたくもない。なぜだろう、と考えたところ、行き着いた答えが「不必要な人間の不必要な情報に溺れてしまう」だった。わたしには必要のないものが溢れていて、それは想像以上にストレスであった。その「不必要な人間」の層にはもちろんわたしが苦手とする人間もいるが、それ以外にもふつうに今まで話したりなんとも思わなかったりした人間も居る。心に秘めた負の感情があるわけでもない。ただ、わたしが関わりたい人間だけが存在する世界に存在を許すかどうかとは、また別の話なのだ。

わたしの楽園に迎えるかどうかの判断基準は複合的なものだが、とりあえず一番シンプルで強力なものは「害になるかならないか」である。害、といえども様々な形があって、わたしに脅威やデメリットをもたらす存在は明確に排除対象なのだが、もっと些細な害を与える人間も嫌である。たとえばわたしが不快に思うことを言う可能性がある人、話していてあまり面白くないなと思う人、話していて何らかの気まずい雰囲気になる可能性がある人。すべてがわたしにとっては小さな害となりうるので、普段はなんともなくてもこうして「関わりたい人間」の選別ができるのなら、そのような人たちは優先度がぐっと低いのでわたしは結果的に排除してゆくだろう。

 

違和感が昔からあった。よく夜の町や住宅街を散歩することがあるのだが、人とすれ違う度に僅かな不快感を覚えていた。それは今思えば、どうでもいい人間の存在が自分のレーダーに入るから、と理由付けられる。とてもざっくりと一言で言ってしまえば、情報が多い。不必要なものはわたしの精神に大きな負担をかける。それらを全部なくしたい。べつに要らない、と判断した人間の存在をわたしの意識から消し去りたい。それはひどく傲慢で危ない思考なのかもしれないが、わたしはただ、自分の精神衛生を守りたいだけだ。

否定の話

知り合いと話していたら、唐突に「否定の仕方がうまいね」と言われた。思えば、以前も似たようなことを言われたことがある。威圧感がないだとか、否定されてもすっと受け入れられるだとか。話している最中はとくに意識しているわけではないのだが、せっかくなのでどのようにしているのかをまとめてみようと思う。


そもそも上手な否定とは何なのか。わたしなりの解釈だが、不快感を与えずにいかに受け手に考え直させるか、だと思う。よって、「不快感を与えない」と「受け手に考え直させる」というふたつの視点から書いていく。


まず「不快感を与えない」ためには、当たり前だと思われるかもしれないが「強い否定語を使用しない」というところから始まる。「それは違う」「間違っている」「いや」「そうじゃなくて」などが挙げられる。大半の人間は真っ向から否定されると身構えるものだ。英語では defensive と言うのだが、ようは防御的になってしまうことである。自分を守らなければ、自分を正当化させなければ、という意思が生まれ、感情に流されてしまって論理的な判断が出来なくなる可能性がある。受け手からも「でも」「とは言うけど」などの否定語が引き出されるようになって議論が進まなくなるので、上記に挙げたような否定の仕方はやめたほうがよい。ひとつ実例を出そう。以下の例はわたし(A)が同僚(B)に仕事の説明をしていた時の話である。

A「… なので今回はこういう方向で進めようと思う。」
B「それって先月やったようなものだね。」
A「先月はコスト重視だったけど、今回はどちらかと言うと結果重視かな。」

ここでは A は「先月とは違う」とはっきり言うのではなく、否定を含まずに違いを説明している。間違っているのならはっきり間違っていると伝えるのが一番効率が良い、という反論があるかもしれないが、最初の否定を除外するだけで受け手は前向きにこちらの言葉を捉えてくれるのだ。上でも書いた通り、否定されると一瞬で心のバリアが出来て、こちらの言葉は受け手の防御フィルターを通って、結果的に話の本質が見失われることもある。否定を除外することは、自分の言葉をそのままの意で上手に理解してもらうためのスキルのひとつであると思う。


次に「受け手に考え直させる」だが、これはいかに受け手が自身の思考力でこちらの言葉を飲み込んでくれるか、ということである。つまり、こちらが「〜〜である」と一方的に与えるのではなく、受け手がこちらの言葉を考えた上で間違いに気付いて納得してくれる、という状況が理想だ。先ほどの例をもう一度見てみよう。B は「先月」のことを持ち出したので、A はまずその「先月」の説明から入る。受け手の頭の中には自身の意見やひとつの物事(この場合は「先月」)が強く存在しているので、その意見を基盤として説明をするのが好ましい。
受け手の思考を促すための手段のひとつとして、何か比較するものを持ち出す、というものもある。例えば、受け手の意見 X に対して「もし〜〜が X なら、〜〜も X になりうるの?」などと持ち出せば、受け手はその意見 X が正当なのかどうか、他のシチュエーションに置き換えたとしても正解なのか、と考えることができる。そうやって受け手が自身の力で考えて、比較して、最終的に納得することができれば、真っ向から否定をせずに、しかも受け手がちゃんと理解をした上で、間違いを正すことができるのだ。

 

しかし時にははっきりと「違う」と言わなければならない状況があるかもしれない。もし否定するような言葉を使う必要があるのなら、以下のように言うとよい。

A「それはわがままだと思う。」
B「いや、それがわがままだという解釈は間違っている。」

ストレートに「わがままではない」「それは間違っている」と言うのは避けている。まわりくどいと感じる人もいると思うが、こうやって受け手の言葉をわざわざ反芻することによって得られるメリットがふたつある。ひとつ目は、具体的にどこがいけないのかを伝えることができる点。こうすることによって論点がぶれず、どこについて考え、どのように考え直せば良いのかを明瞭化することができる。ふたつ目は、「その人」自身が間違っているのではなく「その解釈」が間違っていると、人物と問題点を切り離すことができる点。わたしたちは人格否定がしたいわけではないのだ。受け手が攻撃されていると感じたらあらゆるものをシャットアウトしてしまって議論にならないので、あくまでも意見や解釈に焦点を合わせているのだと伝えなければならない。

 

多少まわりくどいやり方であっても確実に、そしてわだかまりの無いように伝えることが結果的に一番の近道になるのだと思っている。話している時はあまり意識していなかったのだが、こうして書き出すとわたしは無意識に様々なコミュニケーション法を頭の中でシミュレーションしては、最善な切り出し方を選択しているようだ。他者との衝突が増えている場合、あるいは他者がなかなか納得しない場合は、一度上記の方法を思い出して試してみてはいかがだろうか。

お酒の話

飲酒については何度も書こうとしてはうまくまとまらずに削除する、ということを繰り返してきたのだが、今日こそは書いてやろうと思う。ちなみにわたしは今はほろ酔いだ。地酒を1合飲み、サービス券をいただいたのでホテルのバーでカクテルを1杯やったところだ。飲みながら「なぜわたしは飲んでいるのだろう」とお酒について考えていて、部屋に戻ってこれを書いている。

成人するまでお酒は口にしなかった。高校や大学生の頃に、缶ビールやチューハイを買ってこそこそと飲む輩はいたが、わたしはそれらを白い目でみていた。法律には従うべきだ、と頑なに拒否をして、成人してから酒を口にした。地元の梅酒バーに赴いたらマスターが「お祝いだ」と、店に置いてあった梅酒の試飲を次から次へと差し出してくれた。勧められるがままに口にしていたらずいぶんと酔ってしまったみたいだが、高めのヒールを履いていたにもかかわらずまっすぐと自信たっぷりに歩いて帰った覚えがある。異変が起きたのはシャワーを浴びてお布団に入ったあとで、突如と世界がぐわんぐわんと反転し、慌ててお手洗いに駆け込んだ。その晩は便器を抱きしめて眠った。それをきっかけにわたしはお酒というものを知るようになり、なるほどあまり飲みすぎるとこんなにもつらいのか、と初っ端に学ぶことができた。

それからわたしは機会があればお酒を飲むようになった。父がよく飲む人間だったので、それに合わせてわたしも酒を口にした。成人してからは大学の知り合いとも飲むようになった。節操なく呷るクラスメイトを横目に見ながらわたしは自分のペースで飲み続けたため、お酒の失敗はとくになかった。耐性にもそれなりに自信があり、ワインボトルを1本空けても「酔ったな」と思う程度で、気持ち悪くなったり、戻してしまうことはなかった。その頃のわたしはお酒の味が好きで、ワインの渋みやビールの爽快感やウイスキーの深い薫りが好きだった。それらをゆっくりと味わうために、ひとりでバーに訪れることも多かった。

 

しかしいつからかわたしはあまりお酒を好まなくなった。酒欲メーターなるものが出来て、酒欲がピークに達するとそれなりに飲むのだが、一度満足するとまたしばらくお酒を口にする気がなくなる。酒欲が溜まってゆくペースは日を重ねるごとにゆるやかに減少していき、飲み会においては付き合いで「最初の1杯だけ」で満足することも多くなった。酒の味が嫌になったわけではないので時折ウイスキーのロックを頼んでは氷をころころ鳴らしながら飲むこともあるのだが、基本的には「お酒を飲みたい」という気持ちが薄れていった。

 

最近は最初の1杯さえもすっ飛ばして烏龍茶を頼むことも増えた。あるいは最初の1杯は付き合うものの、2杯目からは躊躇いもなく烏龍茶を頼むようになった。「もっと飲みなよ」と飲み会の席で不満そうに言われても、飲みたくないものをわざわざ飲む必要はない。わたしは烏龍茶でいいよ、と意思を貫いて茶をごくごく飲み干す。今ではすっかり烏龍茶キャラが定着してしまって、ビール好きな友達と一緒にご飯に行くと「あなたはもう烏龍茶でいいでしょ」とわたしが何も言わなくても烏龍茶を頼んでくれる。それはひどく心地が良い。たまに気分が乗ると、あるいはお料理によっては1~2杯ほどワインを頼むこともあるが、それもゆっくりと嗜む程度だ。

お酒を飲むと段階を踏んでさまざまな変化が現れる。まず楽しくなる。笑い上戸というほどではないが、いろいろと愉快になって口数も増える。飲み続けると、酔うよりも先に眠くなる。欠伸が増え、疲労感が出てきて丸くなって眠りたい気持ちになる。頻繁に飲んでいた頃はよく「眠そうだね」と言われていた。ここからさらに飲み続けるとよくない。酔ってくるとだんだんと焦燥感に襲われ、恐怖がうまれるのだ。これ以上飲んではいけない、という身体の警告とともに、脳内で負の感情が渦巻く。自分自身のことや自分の人生のことなど、ざっくりとした大きな話題がぐるぐると巡ることもあれば、その場の雰囲気に嫌気が差すこともある。わたしはべつにこの場にいなくてもいいのだ、と思う。友達でもない人々と数時間ともにし、1日経てばきっとあまり覚えていないどうでもいい会話を繰り広げ、気を使いながらまわりに話題を合わせるような時間。それがひどく虚しい。ほぼ同時に寂寥感もうまれ、とてつもなく哀しくなる。よい思い出が蘇り、現状と比較してしまい、嗚呼さみしい、と思うのだ。比べてもよいことなど無いということはわかっているはずなのだが、どうしても無いものねだりをしてしまう。普段我慢していた感情が顔を出し、遠慮なしにわたしをかき乱す。その課程をわたしは頭の中で一匹の蛇として想像する。とぐろを巻いておとなしくしていた蛇が、酒という刺激を受けてにゅっと顔を出し、ちろちろと舌をわざとらしくちらつかせながら悪戯をするのだ。もともとわたしは蛇という生き物が好きなのだが、この時ばかりは参ってしまう。そんなに虐めないでおくれ、と思いながら、なんとか押し戻せないか、慌てて水を体内に流し込んで、精神を蝕んでいる酒を洗い流そうとするのだ。


酒は嗜む程度に、飲んでも飲まれるな、そういう強い信条を抱いている。物理的に飲まれてしまうことは無いけれど、これほどまでに心と思考を荒らされては、飲まれているのと変わらないのではないか。上記でも書いたとおり、幸い最近のわたしはあまりお酒を飲む必要がなくなってきた。焦燥と淋しさに支配されないよう、ほどほどにするべきである。

眠れぬ夜の話

痛い夢をみて、3時頃に目が覚めてしまった。嗚呼夢か、と安堵するもどうも心拍数が正常に戻らず、結局布団を抜け出し、1人掛け用ソファの上で丸くなってみたり、洗面所の中をぐるぐると輪を描いて歩いてみたり、歯を磨いてみたりするが、やはり寝付けそうな気配はなかった。すっかり冷え切ってしまった身体で今は洗面所の床に座り込み、少しでも落ち着こうと文字を叩いている。

 

痛い夢をみた。これは夢なのだとはっきりと認識ができるくせに、明晰夢のペースに心が飲まれてしまってひどく落ち込んだ。最近は吹っ切れたものの、過去は感情移入をしてしまっていた人が主人公だったのだが、今回のわたしはまったくの第三者として現れていた。わたしの知らない人が、わたしがまだ知らなかった人へと宛てた書があって、その場にわたしは居てはいけないのだと悟った。あまりにも個人的な感情が渦巻いて、あまりにも個人的な過去で包まれていた場面だった。しかし足はすくみ喉は詰まり、その場を立ち去ることも一言も発することもできなかったわたしはただただ木偶の坊のようにそこに座り続けた。後ほど共通の知り合いが夫妻で現れたが、顔には靄がかかっており具体的に誰だったのかは思い出せない。しかし何も知らされていなかったあの夫妻は、無邪気な言葉でわたしを殺しにかかったのだった。


今思えば夢の中でわたしに直接向けられた言葉や感情は何ひとつなかったし、だれかに感情移入をすることもなかったのだが、わたしはまるで罰を与えられているような感覚に陥っていた。わたしが引け目を感じていたこと、わたしがきっともう少し上手に出来たこと、わたしが恐れていたことが、そのまま具現化してしまったかのようだった。試しにメモ帳に細かく書き出してみたらどうも数が多くなってしまって、5つめを書いたところでやめた。

きっかけはあった。昨晩わたしはひどく緊張をしていたし、またふとしたきっかけで二人の人間を、あるいは大勢の人間を、無意識に較べていた。それと同じように、夢の中のわたしは、わたし自身を較べていたのだろう。較べて、相応しさについて考えて、悲観的になっていた。


こんな夢に揺らぐほどわたしは自信喪失していないはずだ。僅かながらではあるが自己肯定ができている部分はあるし、また他者に肯定をしてもらっている部分も多くある。不安になる要素など何もない…はずだった。こんなのただの夢だ、たまたま少し弱っていたタイミングに付け込まれただけだ、と自分に言い聞かせる。このようなものに心を試される段階はもうとっくに克服して過ぎ去っているはずだ。こうして眠れずに4時を過ぎてもなお、蝕む想いを文字におこしてなんとか排出しようとするわたしはなんとも愚かなものである。到底眠れそうにはないが、波立っていた心に少しばかりの平穏が訪れたように思う。今日はあまり無理をせずに1日を過ごすことにしよう。

Q3 のまとめ

過去のまとめ:Q1 | Q2


あっという間に四半期がまたひとつ過ぎていった。7月から9月のわたしの日々を振り返る。


7月。中旬頃まで海外にいた。思うことがいろいろあって、その場に居ることがこわいとさえ思った。異質な空間に放り出された気分だったのに不思議と安心感もそこにあって、そのうち恐怖は乗り越えた。なんだか解放されたような感覚で、不必要に感情移入していたものから独立できたような気がした。その後、帰国してから迎えた誕生日も驚きが多くて、遠い地にいる人から贈られたもの、同僚が用意してくれたお祝い、やさしい言葉の数々、それらがすべて新鮮だった。

8月。なんだかやることが多くて、公私ともに目まぐるしく過ぎていった。新しい知り合いが増え、離れたり近づいたりをしながら、最適な距離感を探してゆく。やたらと人に好かれていたが、個人的にはとても失礼な感情の押し付け方をされているように思えて、少々厳しく反論をした時もあった。しかし悪いことばかりではなく、わたしはよい縁に恵まれた、と思う時もあった。米国に住んでいた頃お手伝いをしていた夫婦がいるのだが、いまだにメールのやり取りを通じて彼らの事業を手伝っている。それはわたしにとってなんだか感慨深いことである。仕事面では、わたしにもできることがあるのだ、と思えることがあった。あまりにもちいさな存在で、力のないわたしだけれども、それでもよいことを成すことはできるのだ、人のために何かをすることはできるのだ、と思った。

9月。再び海を渡る。東京の喧騒から、湿度から、難しい人間関係から離れ、ずいぶんと心と身体が休まった。わたしはじつに自由に自己を表現できていたと思う。くだらない冗談を言ったり、ふざけてみせることは、じつを言えばあまり人前ではやったことがない。いつも何かしらのリミッターがあって、「変に思われるから」「くだらないから」「恥ずかしいから」「場がしらけるから」などといろいろ考えるうちに、最終的には当たり障りのない、つまらないところに落ち着くのだ。それが取り除かれて、のびのびと毎日を過ごすことができたのは、ずいぶんとよいことであった。月末に帰国してからもしばらくのんびり。やりたいこともいろいろできて、それらをひとつずつこなしてゆくことを思い描きながら、仕事もプライベートも精一杯楽しむ。


Q2 のまとめのほうで「思考をやめることができない」という話をしたが、あいかわらず考え事は次から次へと溢れ出てきて、時にはそれはあまりよくないこととなる。思考を重ねるごとに精神が疲弊し、かといって思考をやめれば苦痛でならない。考えることをやめたくはない、やめることはできない、やめてはならない。しかしどのようにすれば思考を休ませることができるのだろう?喧騒を離れ、うつくしいものを目にして、しあわせな思考、意味のある思考、心の薬になる思考をかわりにできればよいのだが、それらを妨げるものが多数あってなかなか辿り着くことができない。

次の3ヶ月は仕事のほうもすこし難しくなり、頭を抱えることも多くなるだろうが、元はと言えばわたし自身が好きで踏み込んでいったものだ。最後まで責任をもって見届けるべきである。