読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

1グラムの思考

思ったことを文字におこしているだけのブログ

ヤれそうでヤれないの話

吉田貴司の漫画「やれたかも委員会」を読んだ。結論から言えば、きっとヤれなかった。どう考えてもこれはヤれない案件である。

まず、明らかに少しぼっちっぽい年下の高校生を家に招き入れ、ふたりきりの状況になったとき、倉橋由美子はきっとドキドキしたに違いない。それは緊張によるドキドキではなく、自分が主導権を握っていて、かつ自分にはオンナという武器がある、という興奮のドキドキだ。主人公・増田くんがこの状況におかれていて思うであろうことを、彼女は完全に理解している。ふたりきりになり、倉橋由美子は立ち上がってキッチンで煙草を吸い、梅酒をあける。その間増田くんはリビングで、どうすることもできずに気まずい雰囲気を漂わせながら膝を抱えて座っている。そういう気まずい雰囲気というものは、その場にいる人間なら察せるものなのだ。倉橋由美子も「緊張してる〜」と思っているのかもしれない。干し芋を持ってきて、並んで座ってたいして興味もないテレビに視線を向けながら、それとなく「彼女がいるかどうか」の話題をだす。もちろんただの雑談である可能性も拭いきれないが、いかんせんこの状況下である。さらに彼女は脚も伸ばしてみせる。増田くんの鼓動が早まり、あらぬ妄想をするのも無理ない。
年頃の男の子と部屋にふたりきりでいて、ベッドに、しかも背をこちらに向けて、横になる。テレビの音量が下がるのを感じ取り、足をすりすりさせているのは完全に狙っている。ただし、性的なハプニングを狙っているのではない。彼女が狙っているのはあくまでも「ドキドキするシチュエーション」なのだ。物理的な距離が縮まること、もしくは多少のスキンシップ程度なのである。それ以上は決して求めてはいない。なぜか?

まずひとつ、リスクが高い。友達がいつ帰ってくるのかわからない。もしかしたらグルで、彼女がわざと遅く帰ってくるよう指示しているかもしれないが、携帯をいじるシーンがないのでリアルタイム指示の可能性は低いとする。「○○分後に帰ってきて」などと事前に指示することもできるが、帰ってきたときに焦ったように身だしなみを整えてるさまを見ると、どうやら友達と合わせたわけでもないらしい。

次に、そしてこれが最大の理由なのだが、倉橋由美子のゴールはセックスではない。彼女は「あざとさ」を楽しんでいるのだ。私がこうすれば増田くんはどう思うかな?手出してくるかな?そう思いながらあざとい行為を繰り返すのだ。これは彼女にとって最高に楽しく、スリルのある行為である。悪く言ってしまえば、若い男をもやもやさせて弄ぶのが楽しいのだ。

もし本当に誘っているのなら、ミチコ女史の言うとおり、もっとうまい方法があっただろう。さりげなく彼に触れるとか、みんな帰る頃にこっそり引き止めるとか。そうしなかったのは、彼女はあくまでもあざといスリルを求めていたのであって、性行為自体ではないのだ。もし本当に増田くんが手を出してきたら、彼女は確実に「いや、ちょっと」と拒むだろう。確実に。よって、これはヤれない案件である。

以上。

結婚観の話 - II

このブログのいちばん最初のエントリーは結婚の話であった。
最近やたらわたしの周りの人間が婚約・結婚をしてゆくので、もう一度思うことを書いてみようと思う。

 

以前も書いたが、わたしの中では結婚=子を成すこと、である。子孫を残すべき、という生物学的・人類学的な見方ももちろんあるが、とりあえずここではわたしの「気持ち」を優先して書く。また、婚姻関係における税金・法的云々の話もここでは考えない。

逆から考えてみる。なぜ人は結婚をする?「しあわせになるため」?それが理解できないのだ、わたしには。しあわせの形はそれぞれあれど、結婚としあわせの関連性がよくわからない。法的に縛られるから安心できるということ?もしそうだとしたらあまりにも憐れだ。結婚をすれば責任が発生し、(浮気などの)軽薄な行為を制御できるから?これも憐れ。そもそもわたしにとっての「しあわせ」の定義は愛し愛されることなのだが(しあわせになることの話に詳しく書いてある)、そこに婚姻という要素は存在しない。婚姻関係など結ばずとも愛することはできるし、時間や記憶を共有することもできる。これは本当に声を大にして言いたい。結婚することによってしあわせを共有する、って言ったってそれが子の喜び以外の場合、べつに結婚していなくても共有できるのでは、と思う。ともに支えあい、分かち合う、ということはあくまでも精神的・心理的な部分であって、婚姻とは何ら関係ないはずだ。


最近おもしろいと思ったのは、男同士の会話で「そろそろ彼女と結婚して責任とれよ」という話を聞いたことだった。まずこの「責任」なのだが、これは一体なにに対しての責任なのだろう。彼女さんの年齢?扶養という意味での経済的責任?あまりにも「責任」という主張が不明確で、何が言いたいのかよくわからない。はっきり言えよ、と思った。子供を産むなら彼女がまだ若いほうがいい、ということなのか、経済的支援をしてやれ、ということなのか。あるいは一生愛してやる、という意思表示なのか。

わたしの母は「べつに結婚などせずともよい」と考えている人間なのだが、祖母はむしろ「身を固めて孫の顔を見せてくれ」タイプだと思う。なので祖母が結婚を促す場合は必ずそこに「子」の存在があるのだ。それこそが本来の結婚の形だと思っている。古臭い考えかもしれないが、そもそも結婚したら子を産み子孫を残す流れがあるわけで、昔は跡継ぎだの苗字だのを残すという意識があったではないか。なぜそれが現代では「結婚してしあわせになる」というものに塗り替えられているのか、とたまに考える。


べつに結婚をするなと言いたいわけでも、結婚してすぐに子を作れと言いたいわけでも、子孫のためであるならば多少望まぬ結婚でも致し方ない、と言いたいわけでもない。どうせ子を残すために婚姻関係を結ぶならば、なるべくしあわせであるのが一番である。愛し合っている、理解し合っている人間同士で結婚するのが一番だし、やはり夫婦の仲がよいほうが子育てにも良かろう。わたしが言いたいのは、結婚するのであれば将来的に子の存在を考えるべきだし、安直に「しあわせ=結婚」、あるいは自分でもよくわかっていない「何かの責任=結婚」と考えないでほしい、ということだ。

朝と夜がこわい話

朝がこわい。これから1日が始まるのがこわい。わたしは今日どんな1日を過ごすべきなのか。どんな顔をして1日を過ごすべきなのか。だれと、なにを話して過ごすべきなのか。できることがたくさんある中、どの選択肢を選んで時間を費やすべきなのか。朝は「未来」の始まりであり、自分の活動によって未来が影響されるのがこわい。わたしはできるだけ正しいことをしたい。人生で成し遂げたいことに少しでも貢献できること、少しでも近づけることがしたい。しかし具体的にはどうすればよいのだろう?無数ある「今日」の中でも、とくにこれから始まる「今日」をどのようにすれば有効活用ができるのだろう?流れゆくだけの時間に焦燥感がうまれ、プレッシャーも感じる。

夜がこわい。正確には、黄昏時が終わり、本格的に空が濃紺に染まる時間帯。視界が暗くなり、嗚呼、ついに夜が訪れたのか、と思う。言い知れぬ孤独と哀しみが染みのように心の中で広がっていく。それは場所に限らず、ひとりで家に居る時、友達と食事をしている時、同僚と並んで座ってまだ仕事をしている時、毎回蝕まれる。助けを求めることもできず、独りで暗闇に呑まれてしまうような感覚に陥るのだ。

眠るのがこわい。眠ってしまったら朝がきてしまうから。眠ると時折かなしい夢をみるから。船を漕いでも、それでハッと起きても、寝たくない、と頑なに睡眠を拒む。大抵はいつの間にか眠ってしまうのだが、朝方まで起き続けたこともある。どちらにせよ、また朝がきてしまったことに絶望し、朝がこわい、と感じるのだ。


そんな時は濃いめの珈琲を淹れ、小説を手にとってゆっくりとここではない別の世界に沈み込んでゆく。そうすると心が落ち着き、小説を閉じて現実に戻ってきた時、さて今日も生きねば、と思う。無駄のない、完璧な1日を過ごす必要などない。無理をせずに、今日やるべきことをやるだけだ、と自分に言い聞かせる。夜になったらまたこわくなって、眠るのが嫌になって、翌朝憂鬱になるのはわかっている。しかしその度にまた心を入れ替えて1日を迎えることができるのもわかっている。この無駄の多いサイクルを幾度も繰り返してきたが、無くなることはないのかもしれない。

"Sanctum" Beulah B. Malkin

I built a tiny garden
In a corner of my heart

I kept it just for lovely things
And bade all else depart

And ever was there music
And flowers blossomed fair;

And never was it perfect
Until you entered there

 

My college classmate's father passed away from cancer last year. Having occasionally stayed over at her dorm room, I've met her parents several times during my four years of college. They were incredibly amiable folks - her mother would offer me homemade cookies, and her father would crack jokes and entertain all of us.
I heard that "Sanctum" was a poem that her mother had memorized to cope with the loss of her husband. Mind you, I have never been a poem enthusiast, and I don't intend to be. I am quite happy already burying my head in other genres. I've read Emily Dickinson and Edgar Allan Poe, along with short works here and there by various poets during my high school life. I've also repeatedly read and wrote up pages and pages of analyses as part of education, but I've never really felt attracted to poems in general. Despite my uninterest in poetry, when I first read "Sanctum," I started pouring drops of tears unknowingly and was extremely puzzled. What on earth has happened? 

Upon regaining myself (much to my embarrassment, I was at work at that time, but thankfully no one caught me sniffling), I took a long hard look at the literary piece again. It was strangely compelling. One of the reasons why it gave me such an emotional smack was probably due to the background of the whole situation - knowing the pain my classmate went through when her father passed away, knowing the pain her mother went through. I have lost my grandfather several years ago, and it had been a rough year. My mother regretted not spending more time with him. I regretted not spending more time with him. We all blamed ourselves for things we cannot amend, and the only way to cope was to fill our empty holes with intense fury towards nothing. But after all the uncontrollable emotional swells, we slowly transformed them into positive moments; remembering the good ol' times, remembering the gift that the passed had brought to everyone, remembering the conversations we had together. And suddenly "Sanctum" bursts with color. 

Just like we plant seeds into a physical garden, we also plant emotions and memories into the garden within ourselves. These most often grow slowly and start spreading its roots to eventually become a precious flower. Sometimes though, these may start to wilt, hang its head, and drop its petals one at a time, rapidly spreading a sense of loss and sorrow like a plague. Reading "Sanctum," it reminds me of the former and blurs the latter. It may only be a tiny piece of land, but its luxuriance and mellow fragrance entwines a sense of forgiveness and peace. It reminds me of all the good memories. More often than not, I end up remembering the unhappy moments of life more than I do of the happy ones. Negative emotions of sadness and anger tend to be more powerful and leave a deeper scar. However, upon imagining the flourishing garden that holds only the joyous memories, I am flooded by the numerous interactions that I've cherished so far in my lifetime. 

Who will enter this garden? Who will make it perfect? I believe that there is no one person, and that the sanctum will allow different people to enter at each memory, at each milestone in life. Whomever this may be, I will hold dear with strong compassion. The same applies vice versa - I will serve as the center of their affection. And who can blame me for wading and floating in a sea of tenderness? After all, this is only a tiny part of my vast mind and soul, and I have all rights to retreat into it whenever I wish. It is, precisely indeed, a sanctum in this absurd world of mine.

成したいことの話

最近思うことがいろいろある。なんだかしっくりこない。人との関係も、自身の体調も、精神状態も、仕事も。
しずかに身体を休めたくて家でゆっくりしていても、思考がうるさい。お布団にもぐっても、お風呂につかっても、ぶくぶくと意識が泥沼に沈んでゆく。
気を紛らわせようと外に出たり、人と会う予定をたくさん入れたりする。しかし全員わたしの「知り合い」であり、腹を割って話せる仲ではない。間違いなく気は紛れ、束の間の楽しさは手に入るのだが、同時に身体的疲労とすこしばかりの自己嫌悪におそわれる。これがしばらく続けば、人と会うことによって生じる精神的疲労もあらわれる。精神の死を回避しようと人に会っているのに、やりすぎると逆に負担になってくるのだ。まったくもって面倒である。

わたしは成したいことが大きく分けて3つある。
ひとつ、良い人間でありたい。
ふたつ、誰かの役に立ちたい。
みっつ、しあわせになりたい。

良い人間であること、そして誰かの役に立つことは他者がいないと成り立たないものであり、そしてその他者から「良い人間である」「役に立っている」と認められなければ意味がないのだ。

わたしは誰かの救いになることができるのだろうか。わたしばかり与えられるのではなく、おなじように誰かにもやさしさを向けて、誰かが健やかでいられるよう手助けをすることができるのだろうか。自信がすこしない。

しあわせになる、という大きな目標に向けてどのように歩みを進めていけばいいのか悩む。明日になれば、ひと月後になれば、一年後になれば、わたしは今日よりも近づけているのだろうか。立ち止まっていないだろうか。わたしはできれば、毎日を無駄にすることなく前進していきたいのだが、本当に今日という日が役に立ったのだろうか、という疑問を拭い切れない。


しかし無駄な一日などないのだ、と言う。わたしが今日しっかりと働き、生きることによって確実に進めているのだ。わたしは誰かのためになっている、と言う。本当にそうだと良い。そう願いたい。

ずっと苦しいと思っていたことがついにあふれ、言葉とともに涙もすこしこぼれてしまって、ひとまずはおさまったとは思う。しかし自分のあまりの無力さにもがき、漠然とした不安を抱えて生きているのは変わらないだろう。せめてわたしにもうすこし自信があれば… と思ったところでなにも変わらないのだが。

Q2 のまとめ

7月に入った。Q1 のまとめに続き、4月から6月にかけてのわたしの人生を振り返ってみる。


4月。まずひとり旅をした。週末を利用して京都に行き、ひたすら歩いた。地図のログを確認すると、約20キロ。すこし日差しが強かったが、天気がよく、楽しく散歩をすることができた。東京ほどの喧騒はなく、山がそびえ立ち、空虚な心がすこし満たされた。東京に戻った後、なんとかしたい、とずっと思っていた髪を切りに行った。たかが散髪、と思うかもしれないが、わたしにとっては一大イベントである。わたしははじめて、自分の意思で選択を行ったのだ。

5月。飛行機に乗って海を渡った。不安に思っていたことを、「わたしにはできる」と確信することができた。そしてこの地のことも好きになれた。緑がある、山がある、星が見える。嗚呼、これでこそ生きている実感が湧くものだ。人工物にばかり囲まれて、見渡すかぎりの人、見渡すかぎりのコンクリート、見渡すかぎりのネオン、そんなの、紛い物ばかりだ。この月は日本に戻ったあともずいぶんと楽しかった。良い人たちを紹介してもらった。趣味と呼べそうなものができた。はじめて金沢を訪れた。ここでもやはりすこし市街から外れた宿を選び、霧が濃く星が煌めく夜を堪能した。夜半に聴こえるのは自動車のエンジン音でも酔っ払いの怒号でもなく、近所迷惑も甚だしいほどの蛙の合唱であった。

6月。再び飛行機に乗って海を渡った。前回訪れたときよりも心が、感情が、こもってしまった。葛藤をしながら、悩みながら、それでも与えられた数多くのやさしさに感謝をしながら、じつに必死に生きている。淀んだ眼でとにかく1日でもはやく人生を消耗することばかり考えていた高校時代の自分とは雲泥の差である。わたしは間違いなく救われている。


わたしは相変わらず「考える」という行為をやめることができずにいる。思考をなくすということはわたしの中では無を意味するので決して悪いことではないのだが、わたしは少々思考に時間を費やしすぎているような気がする。思考は自然と起こるので、仕事中であっても、人と会話中であっても、読書中であっても、ゲーム中であっても、気づかぬうちに考えが羽根を生やしてはふわふわとどこかへ飛んでいっている。声をかけられてふと現実に引き戻されることが何度もある。さらに厄介なことに、わたしの精神は思考に強く影響される。思考に引っ張られた結果一日中哀しみにたゆたうこともあり、ひどいときは思考上でしか存在しない仮説に涙を流してしまうことだってある。思考をコントロールするべきか、と最近思うが、どうも難しそうだ。

ついでに今期は数ヶ月ほど気まずいままだった両親と和解をした。正確には何も話し合っていないし、お互い何も理解をしていないので「和解」ではないが、腫れ物を扱うような態度も、よそよそしい態度も、どういうわけか突然なくなった。日常会話ができるようになって、多少は気が楽になるかと思ったが、案外そうでもなかった。引き続き距離は保ったままにしたいと思う。

Q3 はなにを目標にしようかすこし悩んだ。抱負というものを考えるのは少々苦手である。自分に今できることを見つけ出して、ひとつずつ確実にこなすことが大事な時期だと思う。目標をしっかり見据えて、すこしでも近づけるようにもがくだけだ。

死ぬことの意味の話

夢の話 - 挨拶と死ぬことに、自殺よりも事故死などのほうが大切な人を傷つけずに済む、という話を書いた。
ふと夢の詳細が今更ながら脳裏に浮かび、いろいろと思考を誘発させてしまったのでとりあえず書き留めておくことにする。

なぜ自殺よりも事故死なのか、という点について、夢の中の知人は「あのひとが自分を責める材料をひとつでも少なくしたいから」と言った。自分が気にかけていた人間が自殺をするということは、じつに悩ましいことなのだ。なぜ自分には何も言わなかった。なぜ自分が気付いてやれなかった。なぜそばに居てやれなかった。様々な「なぜ」は自分とその人間との関係性に基づいて生まれるものである。一方、事故などは、なぜあの人が死ななければならなかった、なぜあの日あの場所から連れ出さなかった、なぜ自分だけが生き残っているのだ。と、この場合の「なぜ」は死んでしまったという事実に基づいて生まれることが多い。

わたしは自らの死についてよく考える。わたしが死んでしまったあとの世界、わたしが死んでしまったあとの人間の心の揺れ、わたしが死んでしまったあとの忘却。

そして時折、想像の範疇を越えてみたい、とも思う。わたしの歪んだ心や加虐的な愛情が深く根付き、死という爆弾をいつ投下しようか、と機をうかがっている。これは一種の呪いでもある。大切なひとがわたしのことで悩み、哀しみ、そしてもがくように仕向けてみたいのだ。わたしの死を知ったとき、どんな反応をする?どんな感情が渦巻く?どんな思い出が頭を過る?そうやって大切なひとに爪痕を遺すことを想像し、寂寞の世界に耽る。実際のところは現実に生きるほうがよほど実りがあって満たされることも多いのだが、どうも死の妄想というものはかれこれ10年ほど続く習慣のようなものである。